中欧 写真旅行記

中欧 写真旅行記

訪問先 : ベルリン(壁、ブランデンブルク門ペルガモン博物館シャルロッテンブルク宮殿)、ポツダム(ツェツィリエンホフ宮殿サンスーシ新宮殿サンスーシ宮殿)、マイセン焼き博物館、ドレスデン(ツヴィンガー宮殿)、プラハ(プラハ城、旧市街)チェスキークルムロフザルツブルク(ミラベル庭園、モーツァルト生家)ハルシュタット、ウィーン(ウィーン市街シェーンブルン宮殿ベルヴェデーレ宮殿)、プラチスラバ(プラチスラバ城旧市街)、ブダペスト(漁夫の砦、王宮の丘、ゲッレールトの丘)、エステルゴムセンテンドレ、ドナウ河

H24.10.5 更新

これは平成23年7月下旬に旅行した記録です。


ブダペスト 漁夫の砦にて


☆関空からベルリン 所要時間:11時間50分(関空→パリ) 1時間14分(パリ→ベルリン)

 8:30に関西空港に到着して、日本最後の朝食を採る。関空 34番ゲートよりエールフランスAF291便 11:54離陸。機体はB777-200ER。
12:30にクラッカーとドリンクサービス。前半の2時間くらいは結構長い時間ベルト装着サインが出ていて、揺れも何度となくあった。13:45昼食(かつとじ)が出てきた。そして20:30夕食(ハムとマカロニ)が出てきた。17:04(現地時間)パリドゴール空港に無事着陸。ターミナル内を延々歩いてトランジットしようとするも、入国審査口で長蛇の列に着いたが、またもや移動になった。パリ-ドゴール空港は本当に広く感じた。ドゴール空港の入国検査では、ベルトや時計、万歩計、パスポート、ヘアピン等、身に着けているもの全部を外さなければならなかった。テロ対策でより厳しくなっているのだろう。パリの気温21℃。
エールフランスAF2534便19:06離陸。機体はA319。19:20軽食のサンドイッチ(ツナ)と飲み物のサービスが有った。大気の状態が良かったのか、機体の揺れは殆どなくて、エンジンの振動だけの快適なフライトとなった。20:22ベルリン-テーゲル空港着陸。ベルリンの気温22℃。

B777の座席の背もたれにモニターが、ここに
映画やテレビ番組や右横のリモコンでゲームも
出来る
モニターに表示させた飛行ルート(もう少しでパリ) B777の長い主翼と眼下にの雲(地上の天気は
晴れ)上空11,000m、マイナス53℃
きれいなCAさん 右奥のCAさんは日本人 13:45 昼食 かつとじ、フランスパン、サラダ
(イカ、エビ)、ケーキ
20:30 夕食 ハムとマカロニ、パン、サラダ
(コーン、キャベツ、キュウリ、ミニトマト)、キウイ
パリからベルリンまでのA319  モコモコの雲が
眼下にあったが、飛行機の揺れはほとんどなく、
驚くほど安定していた。
サンドイッチ(ツナ)の軽食が出される ベルリン テーゲル(Berlin-Tegel)空港のターミ
ナルビルを後に


☆エストリル(ESTREL)ホテルへ

到着したのはベルリン テーゲル(Berlin-Tegel)空港で、ここは戦後(1948)に急造された空港で、当時としては長い2,400m滑走路を備えていた。現在は2本の滑走路(2,428m、3,023m)がある。ベルリン-ブランデンブルク国際空港が2012年に開港すれば、この空港は閉鎖される予定である。
ベルリン空港から南東に約22km(バスで22分)でエストリル(ESTREL)ホテルに到着。21:16 朝に自宅を出てから22時間あまりの旅、長かった。

ホテル エストリル前のツィークラ(Zieqra)通り エストリルのホテル全景(ベルリン) ホテルの窓から見える景色
地上階のレストラン ここで朝食 開放的な雰囲気で心地良かった エストリルの朝食(バイキング)
亀の甲形のパンはちょっとパサついた感じ


☆ベルリンの壁(Berliner Mauer)

 第二次世界大戦で敗戦国となったドイツは、アメリカ・イギリス・フランスが占領する西ドイツと、ソ連が占領する東ドイツに分割され、ベルリンもまた東西に分割された都市となり、西ベルリンは周囲を東ドイツ(共産主義)に包囲されることになった。ベルリンは分割されたとは言え、電車や車で東西ベルリン間の往来は可能であった。次第に社気主義の東ドイツから豊かな自由主義の西ベルリンに越境する国民が増えてきたため、東ドイツが1961年8月13日に東西の交通を遮断(この時点では有刺鉄線)し、2日後には越境防止の壁(石やコンクリート)を作り始めた。東ドイツ側には数十m離れてもう1枚の壁を建設し、無人地帯を設けた完璧な隔壁となった。
 社会主義が崩壊すると、ハンガリー等の東ヨーロッパ諸国が国境を解放するようになり、1989年11月10日に東ドイツ政府は旅行自由化に踏み切った。報道の誤報によりその前日には検問所が解放され、日本のTVでも報道された壁を破壊するシーンに至る。壁の殆どは撤去されたが、一部が記念としてシュプレー川沿いに残されている。
 シュプレー(Spree)川にクロイツベルク(Kreuzberg)、トレプトウ(Treptow)、フリードリヒスハイン(Fridrichshainの三つの街の交点に立つ分子人(Molecule Man)。米国のアーティスト、ジョナサン・ボロフスキー(Jonathan Borofski)の制作で、高さ30m。人の形をした板状の物を120度間隔で3枚立てた形状になっている。

ベルリン観光でお世話になったバス  シュプレー川に立つ分子人(Molecule Man) O2World 2008年9月に完成の17,000人
収容できる室内競技場 コンサートも開かれる
 
シュプレー川沿いに保存されたベルリンの壁 絵は最近新しく書き直された
中央はブレジネフとホーネッカーの熱いキス
赤いラインがベルリン市内に存在した壁の位置
この辺の壁は20cmくらいで意外と薄い
高さは2.5m
左側の小さく見える壁と右側の壁とで二重
構造になっていた
チェックポイントチャーリーに残る壁(右のポス
ターみたいなもの) 左手に壁博物館


☆ブランデンブルク門(Brandenburuger Tor)

 ベルリンを含むドイツ北東にホーエンツォレルン家(ブランデンブルク)の所領があり、ブランデンブルクを囲む星型の城壁には16の門があり、ブランデンブルク門はその内の一つである。この門はプロイセン王国の凱旋門として1791年にアテネ神殿を模して造られた。東西に走るウンター・デン・リンデン通り(Unter den linden 菩提樹の下の意味)が門の下を通る。門の上にはカドリガ(Quadriga)と呼ばれる4頭立て戦車が取り付けられる(1793)が、イエナ・アウエルシュタットの戦いに勝利したナポレオンが、戦利品としてパリに持ち出された(1806)。ロシアとの同盟軍が仏軍を破ったため、1814年にカドリガが戻ってきた。冷戦時代にはこの門は東ドイツに属するため、西ドイツ軍を表す鷲と十字が除去されたこともあった。

地下鉄ブランデンブルク駅の出入口 4頭立て戦車を駆る勝利の女神 広場南に位置するホテル アドロン ケッピンスキー
(Adion Kempinski)
ブランデンブルク門  かつてベルリンを囲っていた城壁の一つの門   高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11m
ブランデンブルク門から西側の「6月17日
通り」 写真中央遠くに戦勝記念塔が見える
西(裏)側から見たブランデンブルク門 門前を走る市の観光バス


☆ペルガモン博物館(Pergamonmuseum)

古代ギリシャのペルガモン遺跡(現在はトルコ)を主に展示する博物館である。ベルリンを流れるシュプレー川の中州にある博物館島(ペルガモン博物館、ボーデ博物館、旧国立博物館、旧博物館、新博物館)の北側に位置し、1930年に開館した。第2次世界大戦では、空爆や、収蔵品をソ連に持ち去られる等の被害を受けたが、返還修復を経て1959年に博物館を再開した。

アム・クプファーグラーベン(Am Kupufergraben)
通りから博物館島を  工事中
バビロンに在ったイシュタル門(紀元前560年頃) 牡牛のレリーフ
釉薬タイルであることが分かる
  
ギリシャ神話の神々のレリーフ  この向かいがゼウスの大祭壇(紀元前180-159年)
ヨルダンのムシャッタ宮殿(Mshatta facade)の
一部 (8世紀頃)
アテナ神殿とマリア像
ミレトスの市場の門(高さ10m) シリアのアッレポ広間の壁(17世紀頃)
  
イナンナーの神殿の列柱  指くらいの太さの円柱を並べて左の写真のような模様に
アッシリア王の宮殿のレリーフ この↑イヤホンガイドで説明を聞く
バベルの塔等古代遺跡の復元模型
出口の土産物売り場


☆ベルリンでの昼食

フリードリッヒ通りの橋からフリードリッヒ
シュトラーセ駅(アーチ型の橋の上)を望む
コンラート アテナウ通りから、シュプレー川を
行きかう観光船を見る
国会議事堂(現在はドイツ連邦議会の議場が
ある)  丸いのはガラス張りのドーム
アルトモアビット通りのホテルセントラルの地上
階にあるレストランNeumann`sで昼食(11:45)
ウェイターの女性は随分若かった トウモロコシのカレー風味スープ(美味しかった)
ビールはピルスナー
ソーセージ特大1と小3、ポテトとベーコンの
カリカリ焼き 真ん中はザワークラウト
(Sauerkraut)キャベツの自然発酵の酢っぱさ
ブルーベリーが入ったケーキ(サクサクで意外と
甘さ控え目だった)とホイップクリーム
夏のドイツは長期休暇をとる人が多いので、
道路工事はこの夏の時期に集中して行われる 


☆シャルロッテンブルク宮殿(Schloss Charlottenburg)

 プロイセン初代国王のフリードリヒ1世が、王妃ゾフィー・シャルロッテの夏の離宮として1670年に建てたもの。建物の幅は500mにも及び、北側には広大なバロック式庭園がある。中国や日本の陶磁器を壁面にぎっしり並んだ「磁器の間」が有名。

 
ボルゲーゼの闘士に盾と剣を持たせた像 先端部は風見鶏になっている フリードリヒ1世の騎馬像
正面からのシャルロッテンブルク宮殿(旧邸)の全景   写真には写ってない両翼にそれぞれ200mくらいの長い建物が続く
赤い部分が旧邸で黄色い部分が新翼 門から反対(南方)方面を見る 建物内部(案内板より)


☆ツェツィリエンホーフ宮殿(Schloss Cecillenhof)

 ポツダムはベルリンの南西20kmに位置する。湖と森が多く、人口約15万人の比較的小さな町である。ツェツィリエンホーフ宮殿もユンガフェルン湖(Jungfernsee)の湖畔と言える場所に在る。1917年に建設(英国風)され、ホーエンツェレルン家の皇太子ヴェルへルムU世一家が住んでいた。皇太子妃ツェツィーリアの名前からツェツィリエンホーフ宮殿と呼ばれるようになった。日本の終戦へとなったポツダム宣言は、このツェツィリエンホーフ宮殿にトルーマン大統領(米)・チャーチル首相(英)・スターリン書記長(ソ)が、独伊が降伏後も抗戦する日本の対応策を協議したポツダム会談(1945年7月17日〜8月2日)が行なわれた場所である。7月26日に発せられたポツダム宣言にはスターリンは外れて代わりに中華民国が入っている。

駐車場と宮殿との間の気持ち良い木立 中庭から入り口を見る ポツダム会談が行われた建物  花壇はソ連の紋
入り口正面から (広角で建物が曲がって見えますが真横に真っ直ぐに展開)


☆サンスーシ宮殿(Schloss Sanssouci)

 サンスーシ宮殿はポツダム市街の西側に位置する。プロイセン王のフリードリヒU世(1740-1784)が夏の離宮として1747年に建てたが、結果的には終生の居城となった。サンスーシ(Sanssouci)とは「憂いなし」の意味で、フリードリヒがベルリンの喧騒や煩わしさから逃れるために建てた離宮(ロココ様式)と言える。部屋数は12室と少なく、庭園にはぶどう畑が広がり、民にはジャガイモの栽培を奨励する等、フリードリヒの人柄が偲ばれる。

これは宮殿の物ではなく農民の風車
この風車で小麦粉等を挽いてパンを作ったりした
サンスーシ宮殿の正面 ここから馬車が登って
行ったとのこと  しかしかなりの急坂
当時はもっと緩やかな道だったのだろう
宮殿横に在った鳥かごのような休憩所
サンスーシ宮殿の庭園側正面  (中央は半丸で、両サイドは曲がって見えますが、真っ直ぐ真横に展開)
 サンスーシ宮殿上部から見下ろした庭園
 庭園下部の噴水から見上げた庭園とサンスーシ宮殿建物    階段状の部分にはぶどうの木が植えられている


☆サンスーシ新宮殿(Neues Schloss Sanssouci)

 サンスーシ宮殿建設の22年後の1769年には、6年の歳月をかけてより大きな新宮殿(バロック様式)を建設する。場所はサンスーシ宮殿の西1kmあまりの平地。ベルサイユ宮殿を意識して部屋数も200室以上と、新宮殿はサンスーシ宮殿(12室)の10倍以上の規模になっている。新宮殿の前には円形の中国茶館(Chinesis Teehaus)を1756年に建て、少し離れた南側にはフリードリヒ3世のためのイタリア風のシャルロッテンホーフ(Charlottenhof)宮殿を建てている。
 宮殿内部は修復中であり、見学者は床材の保護のために、笑ってしまうくらいの巨大なスリッパを靴のまま履いて摺り足で歩く。建物が安普請とのことで歩くと床が揺れる感じがしたが、宮殿内は見学の価値は十分にあった。館内は撮影禁止となっているが、別途500円追加すれば撮影可能である。私たちはこの500円をケチったために後悔した。

サンスーシ新宮殿の全景    建物屋上の像は硫化鉄を含んだ砂岩なので、数十年も経過すればこのように真っ黒になってしまう(広角)
宮殿正面の庇部分のレリーフ 宮殿と向かい合って西側に、  宮殿の一部を
ポツダム大学が講義室として使用している
南北対象に同じような建物が建っている
本館とは地下道で繋がっていて、食事等を運んだ


☆ベルリンでの夕食

 夕食のレストラン 「R23」  (18:25)  マッシュルームスープ(美味しかった)  チキントマトソース(ちょっと塩味が濃い)
インディカ米がパサパサだった
ラズベリーのゼリー レストラン R23の店内 ホテル エストリルから5分くらいの所にある
スーパーマーケットNettoに買い出し (20:17)
 ドイツの消防車(はしご車)
ドイツは112が緊急呼び出し番号
消防服は何処の国でも大差が無いようだ サイレンを鳴らして消防車が集まってきたが、
何のために来たのか分からなかった


☆ベルリンからマイセンへ  バス移動距離:約193km、所要時間:2時間44分(休憩22分含む)

 ホテルエストリルでの朝食(バイキング)  赤松の林が両サイドに続く  牧草のロールが一杯転がっていた
フライエンフーフェン(Freienhufener Eck West)
のドライブイン
 ドライブイン内の風景  トイレの衛生陶器 ドイツ人に合わせて取付
位置が高い
 トウモロコシ畑が延々と続く  収穫が終わった畑が両側に  気持ち良い木立の中を走り抜ける


☆マイセン(Meissen)(マイセン焼き博物館)

ドレスデンの北西25kmのマイセン(人口2万8千人の工業都市)は、10世紀頃にハインリヒ1世が城館を構えるようになり、川の名前からマイセンと呼ばれるようになった。18世紀にザクセン選帝皇のアウグスト2世が、東洋の白磁に魅せられて、それを自国でも作りたいと思い、ヨハン・フリードリッヒ・ベドガーを幽閉して白磁の製造研究に没頭させて、レンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスの協力を得て漸く1708に同じような磁器ができた。1710にはドレスデンに「王立ザクセン磁器工場」が作られた。白磁の技法機密のために、1710に工場をマイセンのエルベ川沿いにあるアルブレヒト城内に移転させた。1720にはヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(1696-1775)によって現在のような絵付けが完成する。1722にはアウグスト王より王の紋章(双剣)が窯印として描くことが許された。1864にアルブレヒト城の麓(トリービッシュタール)に移転して今日に至る。

マイセン大聖堂(アルブレヒト城)  大きいソフトクリーム  マイセン焼き博物館近くの街並み
 マイセン焼き博物館の入り口  マイセンのショールーム  2mもあろうかという大作
  
   ヘラクレスのフィギアー  
  ディナーフルセット  17,836ユーロ(約210万円)と大変高価な
ティーセット
  
製作工程の実演
粘土を型にはめ込んでティーカップを作る
上のは少年の頭パーツ これを胴体と合体する
下のはティーカップを逆さに これに取っ手を
 台座の周りに彫刻を施している
  
 実演を見る見学者たち  釉薬で模様を描いた後で焼成する  下の棚は 左から右に工程を重ねていった
粘土を乾燥、焼成することにより少し小さくなる  焼成した後に色付けを行う  左から順に、色を追加していく
 マイセンのお馴染みのマークも時代と共に
少しずつ変わってきている 一番上は1720年
一番下が1974〜現在
マイセン磁器工房の入り口の銘板 新婚カップルがクラシックカーでやってきたので、
ポーズをとってもらった


☆マイセンでの昼食  (13:05)

野菜スープ 牛フィレ肉の煮込みともっちりポテトに紫キャベツ チーズケーキ(甘さ控えめで美味しい)
レストラン Alte Schmiede(古い鉄工所) テーブルには金床とハンマーが 天井には造られた鎖が
 加工された半製品が残されている  炉への送風機  平ベルト車
 鍛造機  ボール盤  両頭グラインダー  大きな鋏(何に使っていたのか?)


☆ツヴィンガー宮殿 (ドレスデン)

 ドレスデンはチェコとの国境に程近い位置に在り、エルベ(Elbe)川が街を中をゆったりと流れ、エルベ川の水路を利用した商業都市としてして発展し、中世には「百塔の都」言われた。人口は約51万人。1485年、ザクセン選帝侯フリードリヒ2世の次男(アルブレヒト)がドレスデンを都としてから発展し、モーリッツが選帝侯になってからはザクセンの中心地となった。1711-1728年にはフリードリヒ・アウグスト1世として、自らの居城ツヴィンガー宮殿を建設、1726年には聖母教会を建設する。
 第二次世界大戦では英米の無差別爆撃(爆撃機1,300機、3,900トンの爆弾)によりこれらの建造物は壊滅的な被害を受けた。1963年にツヴィンガー宮殿が、1985年にゼンパーオペラが再建された。数千個の瓦礫になった聖母(フラウエン)教会(45年間瓦礫の山だった)は最大のジグソーパズル(瓦礫をコンピュータに登録)と言われ、世界中からの寄付を集め、およそ3,500個の古い瓦礫を使って2005年にようやく復元された。
 ドレスデンは一番古くからの歴史(1434〜)を持つクリスマスマーケット「シュトリーツェルマルクト(Striezelmarkt)」が催される(11/24〜12/24)のでも有名だ。3大クリスマスマーケット(世界一有名なニュルンベルグ、世界最大のシュトゥットガルト、世界最古のドレスデン)の一つ

左は旧カトリック宮廷教会     真中の尖塔と赤い屋根の建物はドレスデン(レジデンツ)城
 アルテマイスターから旧カトリック宮廷教会と
ドレスデン城の尖塔を見る
数分おきに路面電車が行き交う  ゼンパーオーパーの発注者のザクセン王ヨハン
の騎馬像
左はアルテマイスター絵画館   右はゼンパ―オーパー
宮殿中庭からの絵画館  アルテマイスター絵画館の入り口  ゼンパ―オーパーの入り口
聖母教会(北側) 黒い石がオリジナル 聖母(フラウエン)教会を反対側(南面)から  ゼンパ―オーパーの頭頂部
  
ブリュールシェ・テラッセの階段 左の赤い屋根はドレスデン(レジデンツ)城 エルベ川のアウグストウス橋と遊覧船
 ヒルトンホテル(右の建物)の横の小道 ツヴィンガー宮殿の中庭  宮殿中庭の時計はマイセン製で9時と3時の
ところにマイセンのマークがついている
ブリュールシェ・テラッセ フリードリヒU世(1428-1464)の紋章から
マイセンのマークが作られた
君主(1123〜1904)の行列  幅101m
歴代の皇帝が描かれている壁(マイセン焼き)


☆ドレスデンからケムニッツ  バス移動距離:約80km、所要時間:1時間2分
 ケムニッツからプラハへ
  バス移動距離:約220km、所要時間:3時間5分(休憩14分含む)

 

ドイツでは風力発電の風車が多く見受けられた ペンタホテル(Penta hotel)の玄関前(ケムニッツ) 明るい感じのバスルーム(水洗レバーが巨大)
トマトスープ サーモンのクリーム煮と刻みほうれん草と
バターライス
デザートにイチゴアイスクリーム
朝食のバイキング パンやスイーツが並ぶ(ペンタホテルの朝食) 玉子が笑顔でお迎え


☆プラハ(Praha) (チェコ)

 チェコは北海道くらいの面積に1,000万人余りが住んでいて、そのほぼ中央に首都のプラハ(約120万人)がある。ヨーロッパの中央に位置する地域で、古くはケルト人が住み、7世紀にはスラブ人がモラヴィア王国を建設した。10世紀にはマジャール人が侵入してボヘミヤ王国が建国される。その後ドイツの影響が強くなり、14世紀(1346-1378)にはボヘミヤ王のカレル1世(カール4世)が神聖ローマ法王(実権は弱かった)になり、ボヘミヤ王国の首都であるプラハは繁栄し、現在に残るプラハ城やカレル橋もこの頃に造られていた。しかし、ハンガリー王国やポーランド王国、そしてハプスブルク家の支配を受けることになる。豊富な石炭を産出するボヘミヤ地方は、18世紀から起こった産業革命で一躍工業都市となる。第1次世界大戦後の1918年にはチョコスロバキア共和国となるが、ビロード革命を経て1993年にチェコとして独立国家となる。
 プラハはそんな歴史もあり、ローマやコンスタンチノーブル(イスタンブール)と並ぶ大都市となった。支配する国家は代わったが、街を大きく破壊されることは免れたため、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、アールヌーボー等歴代の文化や建造物を至る所に残り、それらが融合した美しい街である。街の中心部にはヴルタヴァ川が横たわっていて、2002年にはドイツ東部からチェコを襲った大洪水でヴルタヴァ川が氾濫して、プラハ市街の広い範囲で水没した。

産業貿易省  右はフランティシェク総合病院 チェフーフ橋(左はインターコンチネンタルプラハ、
右はプラハ・カレル大学の法学部)
プラハ市内を走る路面電車トラム(新しい車両)
チェコのお巡りさん? プラハ城へ行けるトラム(22番) カレル橋の西袂


☆プラハ城 

プラハの小高い丘に聳え立つのがプラハ城である。870年に聖母マリア教会の建造物が最初に出来て、10世紀には聖イジー教会と聖ヴィート教会(ロトンダとバシリカ)が建造された。その後歴代の王の居城となって増改築を繰り返し、ボヘミア王国が栄えた14世紀には現在の形になった。プラハ城は世界で最も古くて大きい城(570m×130m)だとのこと。聖ヴィート大聖堂は14世紀のカール(カレル)4世が建造を命じて、20世紀になってやっと完成した。長い年月を経てのプラハ城なので、建築様式もゴシック様式(聖ヴィート大聖堂)、ロマネスク様式(聖イジー教会)と多種混在となっている。

北側から聖ヴィート教会を 粉橋(U prasnym mostem)を渡ってプラハ城の
北門へ向かう
両側に衛兵が身動きせずに1時間立ち続ける
衛兵に触れてはいけないとのこと
フラチャニ広場(西側)からのプラハ城   中央の門にはイグナーツ・ブラツェル作の「戦う巨人たち」の彫像(複製)が乗っている
プラハ城第2の中庭   右手に噴水
真中の丸い建物はは聖十字架礼拝堂
左の籠は不倫をしたときに閉じ込めるための籠
衛兵交替は1時間毎に行われる  正午の衛兵
交替式は音楽隊の演奏があるので、観光客の
人垣が  門の中で衛兵交替式が行われる
フラチャニ広場でカルテットの演奏がされていた
  
フラチャニ広場からプラハ市内(南)を一望             遠くの山の上にはペトシーンタワー(高さ60m)
フラチャニ広場の西端から聖ヴィート教会の尖塔 観光客を乗せてゆっくりと走る  昼食のレストランはこのビルの奥
サラダ(キューリ、トマト、ピーマン、レタス)
薄味だったので塩コショウを降りかける
骨付きチキン、クリームコロッケ   デザートのプリン
聖ヴィート大聖堂の正面(西側) 入るのは左右の開いた扉
から圧倒されるような高さと幅がありカメラに収まりきらない
 南面から見た聖ヴィート大聖堂  ゴシック建築
1344年の着工以来600年を経て完成を見る
聖ヴィート大聖堂の正面上部の丸い部分の
ステンドグラスを内側から見た
大聖堂内部 奥行き124m、高さ60mの大空間
地下にカール4世をはじめ歴代の王の墓がある
 聖ヴィート教会を東側から フライングバットレス
(flying buttress小尖塔を繋ぐ梁)
 正面入り口を室内側から  北側にステンドグラス(右はミューシャ作)  南側のステンドグラス
聖イジー教会 プラハで一番古い(1920)教会
火事の後1142年に石造りになる
 赤い部分(ファサード)は17世紀に造られた
聖イジー教会の隣にマリアテレジアが創設した
女族院があり、貧しい貴族の女性がここで
教育を受けた
 東側の城門 ここにも衛兵が2人
  
 プラハ城の東側からプラハ市内を       この上の黒っぽいのがカレル橋↑

☆カレル橋とプラハ旧市街

ヴルタヴァ川に架かるカレル橋から南側の絶景   橋の長さは520m幅は10m  橋の欄干には30体の聖人像が並んでいる
 ここでも映画「ミッションインポッシブル」のロケ
(2008年5月)が行われた
 カレル橋から旧市街側(東方向)を
左は聖アウグスティヌス像 右は聖ヴィンセント像
 カレル橋からプラハ城側(西方向)を
左は聖ルトガガルディス像
 橋の上では露店や演奏が繰り広げられていた  2002年8月14日の洪水の水位の痕  カレル橋からプラハ城を
 
カレル橋から北側の絶景
聖ヤン・ネポムツキー(Jan Nepomuchky)  王女の告白  1393年にネポムツキーが橋から投げ込まれる場面
台座の図柄を触ると幸福になれるとのことで、レリーフがピカピカに光っていた
聖カルヴァリ
十字架を背負うキリスト
カレル橋30体の中で一番古い像
旧市街側の橋塔1400年建造
かつては橋の通行料を徴収した
カレル橋東詰に立つカール4世像 毎時にからくり時計が時報を告げる
天文時計(ここが旧市庁舎)
小さな窓にいろんな人(12使徒)が
現れ、下の小さな人形も微妙に動く
橋塔東側には像が通行人を見下ろしている
上段に聖ジギスムントと聖ヴォイチェフ
下段にカール4世・聖ヴィート・ヴァーツラフ四世
カルロヴァ(Karlova)通りからフソヴァ(Husova)
通りを見る
からくり時計の後にこのオジサンが時刻の回数
だけトランペットを吹いて、身を乗り出して観光客
へ大サービス
マトリョーシカやそれと似た人形が一杯  スリムなドレス姿だが胸元はとても豊か 至る所にカフェが店を出していて繁盛している
  
旧市街広場の北西(旧市役所の北側)にある
聖ミクラーシュ(Mikulase)教会 18世紀
旧市街広場からティーン聖堂の双塔(高さ80m)
手前はヤン・フスの像 
プラハの英雄ヤン・フス(宗教改革者)の像
教会の堕落を批判して1415年火あぶりの刑に
処せられた
 PLADAのお店が  LOUIS VUITTONのお店が  旧市街広場を馬車が走っていた
 旧市街広場西側のカフェ  市民会館のレストラン 広場でイベントがあり、そこに向かって民族衣装で
火薬塔と市民会館   市民会館のスメタナホールで「プラハの春音楽祭」が毎年5月12日から開かれる 
火薬塔は元々は城壁の門であったが、17世紀に火薬の倉庫として使われたため(高さ65m)
 街中の有料トイレ 5チェココルナ
(25円)で15分使用できる
ダンプリング  クネドリーキ(蒸しパン)とポーク 
ザワークラウト(キャベツの酢漬け)
 フルーツデザート  


☆プラハからチェスキークルムロフへ  バス移動距離:約178km、所要時間:2時間45分(休憩16分含む)

 

プラハでの宿泊先のパノラマホテル
(PANORAMA HOTEL)
ホテルのロビー 泊ったツインの部屋
朝食はバイキング方式 ホテル客室からの景色 (生憎の雨)
溜池が点在していて鯉の養殖が行われる 小さな町にも必ず教会らしき尖塔がある 休憩のドライブイン
   チェスキークロムロフで降り立ったところ
建物の向こう奥がバスの駐車場
 南に歩いてクルムフ城を目指すこと数分


☆チェスキークルムロフ (Cesky Krumlov)

 チェスキークロムロフはチェコの南に位置する小さな街で、人口は約14,000人。小さな街の割には大きなチェスキークロム城が在る。
 チェコを縦断するブルタヴァ(Vltava)川(ドイツ語ではモウダウ川)は、物流の重要な役割を果たしていたため、この地にも13世紀にはヴィートコフ(Vitkov)家が城を築くことになる。1302年に町と城はロジェンベルク(Rozemberk)家の支配となり、ロジェンベルク家が代々治めて発展を続け、16世紀のウィルヘルム・フォン・ロジェンベルクの世代にはルネッサンス様式の煌びやかな建物が多く建造され、町は繁栄の頂点に達した。その後神聖ローマ皇帝傘下のエッゲンベルク家、シュヴァルツェンベルク家と統治が移り、バロック様式の建物が加わった。産業革命時には、主要な鉄道網から外れていたため、ここは工業化はされずに時代の波に乗り遅れてしまった。そのおかげで美しい中世の街並みが保存される結果となった。

 私達が街に着いて暫くすると、遠くから何台もの車のクラクションの連打が響き渡った。何処の街にも迷惑な暴走族がいるのだと眉をしかめたのでした。その後も再び近くでクラクションの連打がけたたましく聞こえてきたので道路に出てみると、それは市庁舎があるスヴォルノスチ広場で結婚式(婚姻届)を終えたカップルを祝福するために、花嫁と花婿を乗せて飾りつけた車を先頭に、お祝いに駆け付けた人々が数台の車に分乗して、クラクションを鳴らしながら小さなパレードをする習慣だそうだ。理由が分かった後でも、音だけ聞いてると暴走族そのものである。

 湾曲したヴルタヴァ川でラフティングをしているの見学している  橋の向こうがチェスキークルムロフの中心街
ラフティングの見せどころ
「橋の城」の下を潜って中心街へ  大きく湾曲したブルタヴァ川に守られた街作りになっている(中心街のガイドマップより)
ゴムボートも沢山並んでいる ラゼブニッキー(Lazebnicky)橋 ラゼブニッキー橋から城の尖塔を振り返る
  
スヴォルノスチ(Svornosti)広場  マリア記念柱の左側の建物で昼食を採った
 ビーフ(埋もれている)にマカロニ
 (赤いのはジャムで白いのは生クリーム)
サラダ   クレープと生クリーム

 マリオネット博物館がある尖塔 聖ヴィート教会(st..Vitus)の尖塔 チェスキークロムロフ城の尖塔  ここからも尖塔
ラゼブニッキー(Lazebnicky)橋から広場に向かう 道幅が広いシロカー(Siroka)を歩く  民族衣装の人たち 結婚式に出席するのか?
  
  スヴォルノスチ広場から東へ150m程歩いた左側の見晴らしの良い空き地からの美しい絶景
 左手の階段からクロムロフ城へ坂道を登って行く 城内の噴水から尖塔「城の塔」を見る
尖塔のある建物(フラーデク)が一番古い 
 クロムロフ城第1の中庭
第3の中庭 壁に凹凸があるようにみえるが絵
(だまし絵)が描かれている
チェスキークロムロフ城の入り口  銃眼のような穴から町並みを 
チェスキークロムロフ城内から「城の塔」を遠望
大きな城であることが実感できる
白い建物は「城の橋」 で谷を渡る橋の役目も  チェスキークロムロフ城からの街の眺め

 

☆マリオネット(Marionet)(Papett)
チェコは人形劇が盛んなところで、プラハは勿論、チェスキークロムロフでも、あちこちでマリオネットを見かける。
人形劇が発達したのは、ハプスブルク支配の18〜19世紀頃である。第1次世界大戦時にはドイツの支配を受け、言語もドイツ語を強制されてチェコ語が禁止になった。しかし、人形劇ではチェコ語でなければ言い回しが出来ないこともあり、堂々とチェコ語が使える人形劇でチェコ文化を守ろうとした。第2次世界大戦後は国有化した人形劇団が出来、人形使いは国家公務員として人形劇が文化として保護されてきた。国立劇場を筆頭に多くのマリオネット劇場が存在する。また、国立芸術大学には人形劇学科があり、人形劇を専門に勉強している。

マリオネットの店の外観 この辺のは3〜6万円とちょっと高め 入り口のポスター
購入したマリオネット(Kappa)
身長48cm
右の写真は操作する部分
立てて使う 上の横棒が脚の動きを
逆V字状の棒が手の動きを
 全部で9本の糸で操る
少し大きくて28,800円くらい
7本の糸で操る
小さい土産用で2,800円くらい
1本の針金と4本の糸で操る


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