☆チェスキークロムロフからザルツブルクへ バス移動距離:約230km、所要時間:3時間35分(休憩23分含む)
  

かつての国境(チェコ-オーストリア)
休憩のドライブインLANDZEIT 店内の売り場 夕食のレストランMundenhamer Brau
  
 レストラン内  パンケーキスープ(錦糸玉子風)  ミンチ入りロールキャベツのようなもの
 アップルパイ ザルツブルク市内 遠くホーエンザルツブルク城 市内を走るトロリーバス
  
 ホテルザルツブルクウェスト  ホテル玄関前に狛犬みたいなものが  ツインルーム
朝のTVでの天気予報  ホテルの朝食はバイキング  道路分離帯のこんな小さな所にも花が一杯


☆ザルツブルク(Zalzburg)

ザルツブルクは、オーストリア西部に位置して、ドイツとの国境に極めて近く(4km)、経済的にも文化的にもドイツの影響を強く受けた。人口は15万人で、モーツァルトやカラヤンを輩出した土地で、ザルツブルク音楽祭が毎夏開催される音楽の町であり、「Zalzburg=塩の城」の名の通り、古くから岩塩の取引で繁栄をしてきた町である。約3,800年前には既に人類の足跡が残されていて、岩塩の採掘はその頃から続けられていたようだ。ケルト人が住んでいた1世紀頃にはローマ軍の影響を受け、7世紀にはルーペルト(Rupert)司教によりカトリック教区となる。1077年にはゲブハルト(Gebhard)1世がホーエンザルツブルク(Hohensalzburg)城を築かれ、その後も大司教により拡張され、17世紀には現在の姿となった。

  

ミラベル庭園 (Mirabellgarten )
ミラベル庭園は宮殿そのものよりも、映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリア先生とトラップ家の7人の子供たちが歌い踊ったロケ地で有名である。1606年に大司教ヴォルフ・デードリヒが愛人(サロメ・アルト)と過ごすために作られた。ミラベル宮殿は1818年に火災になったがその後修復され、現在は市長公邸や市役所として使われている。ミラベルとは「美しい」の意味。

奥の小さな入口から入ってきた
何故かしゃがんでいる裸像(これも噴水)
映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、♪ドレミの
歌を歌った階段
階段の上の像
階段の上から庭園全体を見渡す
ペガサスの噴水 映画ではこの周りを回った  大噴水の周りに4体ある像の一つ  ギリシャ神話の神々の像
庭園の並木道 右端は映画のバラのトンネル  ホーエンザルツブルク城 南門にある像(前後・左右4体ある)
映画では奥の像が使われた

 

 尖塔はトリニティ教会(dreifaltigkeitskirche) モーツァルトの住居(1773-1780) 博物館
モーツァルトの作品を鑑賞できる
街中を走るトロリーバス
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan、1908-1989) の生家 カラヤンの銅像のアップ
 
ザルツァッハ川に架かる歩行者専用橋マカートシュテク(Makartsteg)北詰からホーエンザルツブルク城を遠望
 
シュターツ橋から北西方向を(見える橋はマカートシュテク) 右はザッハー(Sacher)ホテル
 ゲトライデ(Getreide)通りの素敵な看板  洋服店のショーウインドウ 恋の願いを叶える鍵を橋のフェンスに
 ZARAの看板  マクドナルドの看板  ゲトライデ通り(Getreidegasseから
見たモーツァルトの生家
大学広場から見たモーツァルトの
生家 
モーツァルト生家ビルの中庭   モーツァルトの生家の入り口 モーツァルトの生家へはこの階段を上っていく 
 大学広場(左がザルツブルク大学)
(右にモーツァルトの生家)
 大学広場のブリュッツェル売り 北路地からモーツァルト生家の斜め向かいの
尖塔
 創業1705年のカフェ トマセッリ(Tomaselli)  ホットドックがずらりと(価格はユーロ)  郵便ポスト


ザルツブルクからハルシュタットへ  バス移動距離:約87km、所要時間:2時間26分(食事休憩53分含む)

 酸味のサラダ  ザルツブルク中心街よりバスで12分ほど  レストランの入り口
 ビーフシチュー(ソトロガノフ) ライスには塩味が 森と草原と赤い屋根が鮮やかなコントラストを  ハルシュタット湖の北西20kmのウォルフガング
湖(Wolfgag see)


☆ハルシュタット (Hallstatt)

ハルシュタットは人口900人余りと、とても小さな村で、土地も狭いので斜面にへばりつくように家が立ち並んでいる。鉄道は対岸を通っているため、3,000年程前に、岩塩を求めてこの地にやって来たケルト人が起源とされ、洞窟にはその足跡(墓地遺跡)が残されている。この地域はザルツカンマーグート(Szlzkammergut、塩の宝庫の意味)と呼ばれ、2,000m級の山々と湖が美しいコントラストを見せている。ハルシュタットとダッハシュタイン連峰と文化的景観が世界遺産に登録されている。映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台ともなった。
  

 駐車場近くからのハルシュタット湖  対岸に人は住んでないように見えるがちゃんと鉄道が通っている
バスやマイカーの駐車場 左側はすぐに湖 ぬいぐるみ等のお土産屋さん 左の人たちは
コーラを飲んでいた
この建物は有料トイレ コインを入れるとドアが
開けられるが、閉めなければコインが要らない
とのこと
 教会の尖塔を南側から 祭りに消防車まで登場  放水を行っているのは子供達(この日は子供祭り)
湖畔のゼー(See)通り  ここが観光のメインストリート  湖岸のテーブルと道路を挟んで店があるので、
料理を運ぶ人が常に道路を横切る
マルクト広場 イベントが行われていた プロテスタント教会の入り口
教会の尖塔を北側から  ここからの眺めが良い 教会の内部
教会の尖塔 (この教会の前にマルクト広場が
有る)
 急斜面に張り付くような家並 ハルシュタットの岩塩 16ユーロ   対岸の古城みたいな建物


☆ハルシュタットからウィーン

 何処の国にもあるマクドナルド トイレ休憩で立ち寄ったRosenbarger 
 アウトバーン(A1)からのメルク(Melk)修道院
リンツ(Linz)とウィーン(Wien)の中間地
 オーストリアでも風力発電があちこちに見られる 車窓はこのような景色が続いた 


ウィーン(Wien)

ウィーンと言えば、モーツァルトやベートーベン等多くの音楽家が活躍したし音楽の都であり、また芸術の都でもある。ウィーンはオーストリアの首都で173万人が住む世界的都市である。ドナウ川に沿ってローマ帝国の防衛線としての軍団基地があったのと、バルト海とイタリアを南北に結ぶ道(琥珀街道)の交点としての要衝地であった。中世ではハプスブルク家の繁栄と共にウィーンも発展していった。今も街中にはハプスブルク家の遺産を至る所で目にすることができ、街並みも中世の佇まいを多く残した美しい街だ。
ウィーン市街は幾度もの洪水に見舞われて、そのための大規模な治水工事が行われ、市街を南北にドナウ運河、ドナウ川、新ドナウ川、旧ドナウ川(三日月湖)と4本も流れている。

 シュテファン大聖堂の東400mくらいにある
レストラン カルドス(Kardos) 夕食
レストラン内部の雰囲気はなかなか良い   サラダ(レタスにホワイトドレッシング)
ウィンナシュニツェル(豚カツ)   ザッハトルテ(Sachertorte)ショコラケーキでこの
ウィーンが発祥(1832)の地  少し甘かった
 レストランの斜め向かいに在ったドミニカ教会
(Dominikanerkirche)
 ホテル ライナーズ(Rainers)  ホテルの部屋から見える風景 
 ホテルの近くにある墓地の建物  ホテル ライナーズの客室  朝食はここでもバイキング形式
分離派館(Wiener Secession芸術家集団) バロック建築カールス教会(Kariskirche) 
オペラ座の南方300mくらいにある
世界的にも有名な国立オペラ座
マリアテレジア像と後ろはミュージアムクォータ  ウィーン自然史博物館 テオフィル・フォン・ハンセンによって1883年に
建設の国会議事堂とアテナ女神像
  
ウィーン市庁舎(1883年建設)ヴォティーフ教会より1m低い98mとなったが、尖塔の上に騎士像
を乗せて、高さ105mとした
エーベンドルファー(Ebendorfer)通りから市庁舎
の側面を見る
 ウィーン市電(新型の低床路面電車)  ウィーン市電(路面電車)  ウィーン楽友会館(クラシック音楽団体の本拠)
ウィーンフィルもここに 黄金ホール等


シェーンブルン宮殿(Schuloss Schonbrunn)

1569年、皇帝マクシミリアン2世が敷地を買い上げてハプスブルク家の所有となる。1693年、皇帝レオポルト1世(LeopoldTハプスブルク家)がベルサイユ宮殿を意識した狩猟用別邸(宮殿)を計画し、1700年に中央棟完成した。その後の皇帝により増改築され、1743年女帝マリア・テレジアにより大改築が始まり、1780年頃には宮殿と庭園が完成して現在の姿となった。シェーンブルン(Schoner Brunnen)とは「美しい泉」の意味で、1612年、マティアヌス皇帝が敷地内の泉を発見した。
全部で1,441部屋もあるが、その内の40部屋が公開されている。
マリア・テレジアの11女であるマリーアントワネットは、14才までを夏の離宮であるここで育って、後にルイ16世(ベルサイユ宮殿)となるフランス王子に嫁いでいった。

  シェーンブルン宮殿の正面
 門の外側から宮殿の建物を  宮殿側から門を通して南側を  向かって左側に在る噴水
 バルコニーと階段が有る  宮殿内部への入場口  宮殿全館の入場券は13ユーロ50セント
  宮殿の南側に広がるフランス式庭園  およそ1km四方の広さ
緑の葉の装飾を施した女子トイレの壁やドア
男子トイレも同じ装飾
丘の上のグロリエッテ(対プロイセン戦の勝利と
戦没者の慰霊記念碑) 手前はネプチューンの泉
 これは据え置き型の暖炉


ベルヴェデーレ宮殿(Belvedere)

 ハプスブルクに仕えた軍人のオイゲン公(1663-1736)が、夏の離宮として造らせたバロック建築の宮殿である。オイゲン公は、トルコとの戦争やフランスとの戦争で、何度も戦勝へ導いたオーストリアの英雄とされていた。現在はオーストリアで2番目に大きい絵画館となっている。

  池越しに宮殿の正面から   建物内は美術館になっていて、クリムトの「接吻」が展示
南側の門(外から見る) 観光は両サイドの細い
門で出入りする
宮殿正面入り口 宮殿建物の東側
北側に広がる庭園   遠くにシュテファン大聖堂の尖塔が見える
天使とライオン?  園のあちこちに彫像が見受けられる こちらの彫像は翼が無くて完全に座っている


☆ウィーンからプラチスラバへ(スロバキア) バス移動距離:約65km、所要時間:1時間18分

   昼食のレストラン  レストラン内の雰囲気
 ポテトガーリックのスープ  白身魚のムニエル ライスは程良い味と固さ  チーズケーキにカスタードクリーム
 どの建物も良い雰囲気を醸し出している  あちこちに風力発電の風車が  オーストリアとスロバキアの国境



ブラチスラバ城(Bratislava)

 スロバキアは、国土面積が北海道の3/5と表されるくらい狭い国土に約540万人が住んでいる。ブラチスラバはその首都ではあるが、オーストリアとの国境(1、2km)に近い。ブラチスラバは10世紀〜19世紀くらいまではハンガリー王国に属して、それだけではなくオスマントルコ侵攻後(1563-1830)はハンガリーの首都にもなっていた。ブラチスラバはドナウ川沿いの街で、紀元前6世紀頃には人が住み始め、1世紀頃にはローマ軍団基地として発達してきた街である。
 ブラチスラバ城は石造りの城(ロマネスク様式)が12世紀には既に存在して、オスマントルコとに対抗するため増築がされ、17世紀にはテーブルの脚にあたる4隅の塔が完成した。18世紀にはマリアテレジアの居城としても使われた。しかし1811年に大火災が発生して、その後は荒廃してしまった。第2次世界大戦後には現在みられる建物が再建され、城内は歴史博物館としてつかわれている。

ここでバスを降りて右のプラチスラバ城へ向かう 城の入り口にあるスロバキア共和国国民議会 この門から場内に入って行く
ブラチスラバ城内は歴史博物館や音楽博物館として使われている 2番目の門  青い服を着た少し太めの女性が
ブラチスラバのガイド
ブラチスラバ城 左隅の塔は少し大きい
建物を上から見ると、ロの字型ではあるが画面では右の奥行きが浅い歪んだロの字だ
この右手眼下にはドナウ川
  
ドナウ川に架かるは新橋(Novy most)とUFOの塔(展望レストランもある)      ブラチスラバ城からドナウ川をの対岸の街ペトルジャルカ
 中庭の西側を見る  何か催しの準備  右写真の人が集まっているところが井戸である  中庭の東側を見る  在るのは井戸のみ
 建物から外を(南側)を見る 出入り口付近の、この石垣の中が土産物売り場   旧市街から見たブラチスラバ城


ブラチスラバ旧市街

 

 ミハエル門の北側に位置する教会 ここから旧市街に入る  尖塔はミハエル門  ミハエル門(51m)を潜って
 ヤン・ネポムツキーの像
(橋と川の守護聖人)
 大天使ミハエルの像 かつてはこのような門が4つあり、城壁が街をぐるりと囲んでいたが、
18世紀にマリアテレジアが街の発展のためにこの門以外を撤去した
 ミハルスカ通りからミハエル門  オーストリア大使館から車(三菱)が出てきた
モーツァルトも一時期住んでいた建物
 ミハルスカ通り 露店が並んでいる
こんなオブジェも   鉄板の人型が  それより外壁に大砲の弾が 砲弾の拡大   赤⇒に砲弾が
 一番幅の狭い店とのこと  旧市庁舎角に聖母マリア像  旧市庁舎の塔 左写真の赤⇒に砲弾が埋まっている
1809年ナポレオン軍に包囲された時
  フラヴネー広場   旧市街をゆっくり走る観光車両  狭い通り(ブラチスラバ大学の図書館横)から
ブラチスラバ城が見える
フラヴネー広場のロランド噴水
(皇帝マクシミリアン像)
フラヴネー広場(西側)   日本大使館(フラヴネー広場南側)
 大司教正面の像  ブラチスラバ大司教宮殿 ここで市長が執務 日本大使館前の兵隊さん
 マンホールから上体を乗り出す人の像 右の人は銅像を真似たパフォーマー
一緒に写真を撮ると有料になる
 ナポレオン像


☆ブラチスラバからブダペストへ(ハンガリー)  バス移動距離:約201km、所要時間:2時間37分(休憩18分含む)

ブラチスラバもブダペストもドナウ川沿いに発達した街だ。スロバキアとハンガリー国境も、今は両国ともユーロ圏なのでスルーパスできる。以前はこの国境でバスを降りてスタンプを押してもらっていたそうだ。
ガソリンスタンドで値段をみるとガソリン399.9フォリント(約130円)、軽油391.9フォリント(約125円)と値段があまり変わらないのは税金が関係しているのか、それとも低硫黄分の軽油で値段の差が少なくなっているのか。
スロバキアでは無かった風力発電が、ハンガリーに入ってから一気に風車が増えた。

 

 スロバキアのビル群  スロバキアとハンガリーの国境  休憩に立ち寄ったドライブイン
ガソリン(ディーゼル)スタンドでの給油口  ディーゼルの軽油もガソリンもあまり値段が変わら
ないのは軽油の質が良い(低硫黄分)からなのか 
 ハンガリーも風力発電が盛んなようだ
写真でも7基の風車が見える


ブダペスト (Budapest)

 ハンガリーは日本の1/4くらいの面積に約1,000万人の人が住んでいる。ブダペストはハンガリーの首都で約180万人が暮らしている。ドナウ川を挟んで西側のブダ(Buda)と東側のペスト(Pest)に完全に分かれていたが、1849年に両街を繋ぐ「セーチェニくさり橋」が完成し、1873年には合併されてブダペストとなった。
ローマ帝国時代はドナウ川が防衛線(国境)で、この近辺には軍団基地アクインクムとコントラ・アクインクムが在り、パンノニア州の州都でもあった。ハンガリー王国は1世紀にはすでに在った。1241年から1242年にかけてモンゴル軍の侵攻を受け、それまでエステルゴムにあった首都機能をブダに移した。1526年にはオスマントルコに征服されたが、1686年にはハプスブルク家によって取り戻された。1944年にはナチスドイツに占領されるが、1945年にはソ連軍が侵攻してきて、ソ連の影響を受けた社会主義国家となる。
 ハンガリーはマジャール人が多く、マジャール人には日本人と同じく、子供の頃に蒙古班(もうこはん)があるので、マジャール人はアジア系民族であることが分かる。名前の表記も姓・名の順で日本と同じである。ワインが有名で、かつてオスマントルコ軍が攻めてきた時、ワインを飲んで髭に赤い滴を見て、牛の血を飲む民族と勘違いして恐れられた。
 自由気ままなオーストリア皇后エリザベート(1837-1898も、エルジューベト橋(ドナウ川にかかる白い橋)やエルジューベト広場と名付けられたように、ハンガリーではとても人気(ハンガリー独立に貢献したエリザベート)が有って、今でも慕われている。

 ↑ゲレルトの丘                                             王宮の丘↑              魚夫の砦↑
 インターコンチネンタルホテル(北側より)  王宮の丘から見たインターコンチネンタルホテル  落ち着いた雰囲気のフロント
 設備が充実したパウダールーム  ドナウ川に面した窓からの夜景が美しい ホテルの夕食 サラダ(赤いのはニンジンで甘い)
 チキンのパプリカソースとニョッキ  デザートのケーキ  ホテル朝食(バイキング形式)
  
 過去に防衛庁として使われた建物  戦争の弾丸の痕  大統領執務館から遠くブダの丘
ハンガリーで最初のダンス劇場だとの記  国立ダンス劇場  ダンス専門の劇場
クラシックバレエや民族舞踊等
国立ダンス劇場       ここで1800年に
ベートーベンが演奏をしたとの記
  
 ハンガリー共和国大統領の執務館  大統領の執務館の南側  王宮の丘へのケーブルカーの機械室
(つるべの滑車にあたるところ)
 くさり橋と聖イシュトバーン大聖堂のドーム  セントジョルジ広場への門と鳥  マジャール人のシンボル「トウルル」(架空の鳥)
  
 王宮の丘からドナウ川の対岸
左端は国会議事堂   真中はくさり橋
 王宮前のトルコからハンガリーを独立させた
オイゲン公(Prinz Eugen)の騎馬像
 王宮のドーム 建物内は国立美術館
 王宮の丘で一番古い(15世紀頃)建物  チケット売り場 漁夫の砦もマーチャーシュも  マーチャーシュ教会
  
 初代ハンガリー王の聖イシュトバーンの騎馬像 マーチャーシュ教会の屋根
きれいな屋根瓦はジョルナイ製の陶磁器
尖塔の先に、フニャディ(マーチャーシュ)家の
紋章のカラス
 中央の男性はブダペストを案内してもらった
アレック・ラカトス氏
漁夫の砦  尖った円錐形は全部で7つある  この辺に漁師が多かったため、この砦を守るのも
漁師が担当していたので、漁夫の砦といわれるようないなった
 今も修復を続けている  三位一体広場の象徴 高さ14m
ペスト終焉を記念して建てられた
対岸の国会議事堂(96m)
17年の歳月をかけ1902年に完成した
三位一体広場南西に建つのは旧市庁舎    建物の角の彫像はブダペストの守護神   ハンガリーと言えばパプリカ
これはパプリカ粉末で、辛いのと辛さ控えめ
 漁夫の砦からの眺望  横たわるはドナウ川
 漁夫の砦を下から仰ぎ見る  王宮の丘で働く清掃車

ゲッレールト(Gellert)の丘

ブダペストの南西に聳える高台(標高235m)で、ドナウ川とブダペスト東岸が一望に見渡せる。11世紀にキリストを伝道した宣教師ジェラルド・ゲッレールトの名からきている。ゲッレールトは1046年に暴徒によって、手押し車に縛り付けられた状態で、崖の上からドナウ川に突き落とされ殉死した。その崖に1904年ジェラルド像が建てられている。中世にはハプスブルク家がブダペストを監視するための要塞がつくられた。第2次世界大戦でも軍事的に重要(この高台からブダペスト市街を砲撃)な地であったため、ナチスドイツが占領し、そしてソ連軍によってナチスドイツ軍を追い払った。ソ連軍の勝利(ハンガリーをファシズムから解放した)を記念して、ソ連によって自由の女神像が建てられた。完成当時は台座にソ連兵の像(慰霊碑)もあったが、共産主義から脱却とともに、ソ連兵の像のみが撤去された。

 バスを利用したカフェ  ゲッレールトの丘からドナウ河(鎖橋)方面を  トィタデッラ(要塞)が展望レストランや博物館に
 沿道には露店が並んでいた  ナチス攻撃に使われた砲が展示されていた  57mm砲で8,800mの遠くまで砲弾を飛ばせる
 ソ連によって、ハンガリーがナチスから解放
された記念の碑(以前はソ連兵の像も有った)
 自由の女神像 掲げているのは椰子の葉   聖火を掲げる青年と5つの頭がある龍を退治する勇士
(シュロなら葉は1点から扇状に広がり、月桂樹なら葉がこんなに長くない)  
 ゲッレールトの丘から南側を望む   ドナウ川に架かるペテーフィ(Petofi)橋

1906年に完成した西洋美術館 ラファエロや
ゴヤの絵画も
英雄広場 建国1,000年を記念して1896年に
建設  周りにマジャール人7部族長の騎馬像
現代美術館 世界で活躍しているアーティストの
作品が展示される


 九龍大酒店での昼食  店内の様子  店の前の広告塔と電話ボックス
 一人ひとりの席に用意  餃子スープ  八宝菜? カレイのネギ醤油かけ  イカ・きくらげ・ブロッコリー等
の炒め物
 焼きそば  ブタ肉炒め  チャーハン  空芯菜炒め  デザートのスイカ



エステルゴム(Esztergom)

ブダペストからのバス移動距離:約50km、所要時間:1時間15分

 ドナウ川が大きく方向を変える地域をドナウベンドと呼び、エステルゴムもその一つである。1000年にイシュトバーン1世がこの地でハンガリー王国を建国し、ドナウ川に面する小高い丘にキリスト教国(カトリック)の象徴として大聖堂を建てた。今でもハンガリーカトリック教会の総本山である。
大聖堂は12世紀に火災で焼失して、そののちに修復されるが、再び16世紀にオスマントルコにより破壊される。オスマントルコの襲撃時にバコーツ礼拝堂を1,600個の部品に分解して疎開し、唯一破壊から免れて残った。1822年には大聖堂の再建を始め、中断はあったものの1869年にようやく現在の大聖堂が完成した。

 大聖堂 高さ100m(ドーム直径は53.5m)
ハンガリーでは最大  1856年に再建
 大聖堂前の聖母マリア像  大聖堂から振り返った景色
大聖堂の側面  右端の塔は鐘楼 側面の壁  正面の壁
  
 ポストと記念メダルの刻印機  祭壇正面  聖母マリアの昇天(13.5×6mの大きさ)
1枚のキャンバスとしては世界最大
バロック様式のバコーツ礼拝堂 オスマントルコ
との戦争時は1,600個に分解して難を逃れた 
 床の大理石にアンモナイトが埋もれている  後方のパイプオルガン
  
 聖ステパノの祭壇  銀製で聖者の遺骨が入ってるとのこと  ドーム天井を見上げる
キリストの肖像(国宝)  大聖堂の向かい側にある王宮博物館  ここでバスを降りて大聖堂に向かう 右はトイレ
 
大聖堂からキリスト教博物館とドナウ川
ドナウ川に架かる橋はマーリアヴァレーリア(Maria Valeriaフランツ・ヨーゼフの三女の名前)橋
(第2次世界大戦で破壊され、2001年再建)   ドナウ川の手前はエステルゴム(ハンガリー)だが、対岸はスロバキア


センテンドレ(Szentendre)

エステルゴムからのバス移動距離:約40km、所要時間:1時間10分

 ここもドナウベンド(ブダペストにより近い)の一つ。14世紀頃より商業を中心として栄えた街で、オスマントルコの襲撃から逃れようとした多くのセルビア人(ハンガリーの南、ドナウ川の下流域)が住むようになった。そのため現在もセルビア文化の影響が色濃く残っている街である。1920年頃から芸術家たちが集まるようになり、街には美術館やギャラリーが沢山(15館)ある。

 

道路両側に土産物屋が並ぶ  中央広場とブラゴヴェシュテンス(Blagovestenszka)
セルビア教会の尖塔 1754年建設
丘の上のブレーバーニア(Blebania)カトリック教会  ブレーバーニア教会から眺める家並
  道路にはみ出すカフェ (エリザベス))   このような細い通路が
似顔絵屋さんの店先で  川沿いの道路から中央広場への坂道


ブダペスト旧市街

  ヨージェフ アテッラ(Jozsef Attila)通りに面した
ビルの1階が歩行者用廊下になっている
 
飲料水用分別ごみ箱   量が増えると伸びる
左から透明の瓶 リサイクルプラボトル 色付き瓶
 エルジューベト(Erzsebet)広場 
子供たちの格好の遊び場になっていた
 ヴェレシュマルティ(Vorosmarty)広場
人通りが多くて活気が有った
斬新なディスプレイのショーウインドウ パーキングチケットを買う男性 3時間まで400Ft
15分までの超過は6,000Ft(約2,100円)の罰金
15分以上の超過は16,400Ft(約5,700円)の罰金


ブダペスト(ドナウ川)の夜景
船上レストランで夕景のドナウ川を望みながらの夕食となった。ブダの丘に沈む夕日から徐々に街の明かりが煌めき始める時間は、何とも言えない旅の情緒を醸し出す。

サラダ(パプリカが果物のように甘く
パプリカの印象が一変した)
 ピクルス(かなり酸っぱい)  ビーフの煮込み(グヤーシュ)と
ニョッキ(ソースが辛め)
 デザート
夕暮れの くさり橋 1849年建設  遊覧船からのくさり橋と王宮の丘  ブダの街とペストの街を最初に繋いだくさり橋
 くさり橋の支塔  橋の取り付きに鎮座するライオン像  くさり橋の側面
  
吊り橋はワイヤロープではなく板を繋いでいる 両端に穴が開いた板状(長い8の字)の物を何枚
も重ねて それを繋ぎ合わせて鎖状にしている
 手前は船上レストラン
 王宮の丘  王宮の丘のドーム  1782創立のブダペスト工科経済大学
 真白なエリジェーベト橋 1964年に建設  自由橋 建国1000年を記念して1896年に建設  くさり橋とマーチャーシュ教会

 

ハンガリーのブダペスト空港から、フランスのシャルル・ドゴール空港、そして関空に

 ブダペスト空港  ハンガリー航空 777-600  ブダペストの管制塔
   ブダペストからドゴール空港までに出た軽食  着陸時にフラップを上げての減速
 ドゴール空港 2Eターミナル  ドゴール空港 楕円形の2Eターミナル建物  エールフランス機が並ぶウィング