戦争にならないように

H29.9.28 更新

戦争は世界各地で、遥か何千年も昔から何度も繰り返されて現在に至っている。多くの民衆が平和を望んでも、行き着く先は戦争になってしまうのが人間の性なのか。「平和維持」、「祖国のために」、「正義のために」、「家族のために」、「防衛や自衛」、「資源や食糧確保のために」等の大義名分を掲げると、最後は戦争にならざるを得なくなる。「戦争をしない」だけではなく「戦争にならないように最後の最後まで尽力」することが肝要かと考える。 

戦争体験者の発言力が薄れてきた今日、「国民の平和維持のため」ときれいな言葉に置き換えて、再び戦争への道を歩み出した。防衛のためと言いながらも何時の間にか加害者になっていくのだろう。現政権(現首相A)は自らの欲望で、その道に一歩を踏み出した。

             

★戦争は結果がどうであれ悲惨なことにならざるを得ない。何がなんでも戦争は絶対に避けなければならないのに、ほんの一部の人間(組織)の利益やメンツのため、あるいは間違った状況判断に、多くの兵士や民衆が犠牲を強いられる。圧倒的優勢で犠牲者が出なかったと安堵する一方で、相手方(敗者)は多くの犠牲者を出していることを忘れてはならない。 
戦争を決断した人達や、戦争を指揮する人達は安全な場所で、まるでゲームをするように痛くも痒くもないが、命令された多くの人達は尊い命を散らしていく。
平和な法治国家では、殺傷行為は重罪であるが、いざ戦争となれば人を殺すこと(死ぬこと)が軽く考えられる異常状態となるが、負傷した痛みや家族を失った心痛は戦時下でも変わらず悲惨である。

 

★昭和14年5月 満州国とモンゴルとの国境付近のハルハ河で越境を発端に、多くの犠牲者(5万人とも)を出す戦争へと拡大していった。ノモンハン事件である。越境と言っても国境の壁や有刺鉄線がある訳ではなく、ただ石ころが点在するだけで、見渡す限りの草原の何処が国境なの?と云う感じのところでの事件(戦争)なのだ。モンゴルの遊牧民は水のあるところ草のあるところへと自由に往来していただろう。その感覚でモンゴル兵も越境したと考えられ、本来であれば小競り合いで収めるべきことを、関東軍参謀辻政信と第23師団(小松原道太郎中将)が主軸になって拡大されていった。関東軍は日清日露戦争から引きずる驕りがあってソ連軍を甘く見て、著しい兵器の進歩とシベリア鉄道での圧倒的な兵站優勢のソ連軍に、最後には肉弾と精神力で鉄壁に戦いを挑んだ。
戦争責任は誤った判断で拡大戦争を主導した辻政信らにあるが、責任を転嫁されたのは前線の指揮官たちで、その場で自害に追いやられた。
大本営への戦果報告は、被害は過少にするが相手への打撃は過大に報告するようになり、益々悪循環になっていく。
ノモンハン事件の真相は葬られたまま、2年後に勃発する第2次世界大戦でも同じ過ちを繰り返すことになる。

戦争は勝っても負けても戦場は悲惨であるから、戦争回避を肝に銘じなければならない。「戦争にならないように」最後まで努力を惜しまないことだ。

★核兵器禁止条約が2017.7.7に122カ国の賛成を得て採択されたが、核保有国5カ国に唯一の被爆国の日本が反対に加わるのは信じがたいことである。AB首相は国民の方には全く目を向けず、アメリカに尻尾をふる振る舞いは独裁政治としか言いようがない。AB首相は反対国と賛成国の橋渡しをすると言っているが、それが本気ならば核兵器禁止条約賛成国側になって橋渡しをするのが本筋である。
都合が悪くなれば、巧に(国民が騙されそうな)言葉にすり替えて、国民を欺いて自分の思い通りに事を運ぼうとする。思うに、AB首相は憲法9条を変えて戦争がしたい(閲兵式のような場で、自分の命令一つで全てを動かしたい)のだろう。戦争の理由も、国民を守るためとか、国際秩序を守るためとかの偽の大儀名分を付随させて。そして都合が悪いことには特定秘密保護法で闇に葬られてしまう。独裁と言われたヒットラーも議会の賛同を得ていたように。