日本と外国の根本的な違い

H22.8.12更新

自民党から民主党に政権が移ったけれど、まだまだ成果が表れるには時間を要するとは言え、世の中が良くなる気配は見えてこない。景気の影響なのか失業者は増え、返せる見込みもない借金で自己破産する人が増えた。直ぐにキレる子どもが増える反面、虐待で死に追いやられる子どもも数え切れない。将来に年金が貰える見込みも無いし、国の借金は年々増える一方だ。私達日本人の将来を考えると不安材料ばかりである。政府は日本国民の安定や安心を真剣に考えているとはとても思えない。

★遥か昔から、日本の城は城主を守るために城郭が堅牢に築かれていたが、農民や町民は城郭(濠)の外に何の防御柵も無しで住むことが多い。戦になれば武士は城主の一族を守るために戦うが、農民や町民は眼中にはない。武士が戦う相手は武士であり、農民や町民は戦力とは見なされない。武士ではないから農民や町民は軽視され、「斬り捨てご免」の精神で扱われた。町民にとっては戦に負けても城主が変わるだけで、町民が皆殺しにされることはなかったため、町民は戦には関わらなかったし、城主は町民のことを考える必要もなかった。
 しかし、外国で城と言えば、町全体を囲む城壁を云うことが多く、城主や戦士はその城壁内に住む町民全てを守るのが使命(義務)で、外敵から町民を守れなければ城主としては失格である。戦士(騎士)は町民を守るために戦い、町民も戦いに加わった。

 

★日露戦争やノモンハン事件から始まる大戦では、日本(軍)は物資(弾薬や食料品等の日用品)の補給も出来ないままに、太刀打ち出来ない戦力に精神力を頼りに戦いを挑み、屍を積み重ねるだけしかない戦術を取り続けていた。冷静に考えれば、機関銃や戦車を相手に銃剣で突撃しても、犠牲者を増やすばかりで戦術としてより良い選択とはとても言えない。それ以前に、食料無しや弾薬無しでどのようにして戦えというのか。
ここでも国民の命は軽んじられ、トップのために犠牲になることが当然と考えられていた。
 本来戦争は国民を守るため、家族を守るために止むを得ず行われるべきであるが、日本では国民を守ると云う原則が置き去りにされてしまった。現代での国民感情は、「軍隊は国民を守るためではなく、国民を悲惨な戦場に駆り出し、国民に犠牲を強いいる存在」との印象を持っているのではないだろうか。
 外国では「戦争は兵站で勝つ」とよく言われる。ローマ帝国の軍隊は、物資の補給路を確保することから始まり、短期間の宿営地でも完全な防御壁を張り巡らし、その中には病院や浴場等のインフラの整備がされて、一つの街が出現したかの如くに軍隊の生活を完全なものにして、そこから持てる力を最大限に発揮することが出来た。

 

★近年では、頑丈で立派な建物と言えば役所の建物ではないだろうか。これは昔からの堅牢なお城の考えが今も引き継がれているのでは。
日本では、国民のためとか国民の目線でとかは掛け声だけで、政治も一部のトップ集団の利害と選挙だけを視野に入れての施策である。「守るべきは城主」の日本と、「守るべきは国民」の外国、との精神が底流として存在しているのではないだろうか。