☆インターラーケンからグリンデルワルド バス移動距離:約21km、所要時間:28分

インターラーケンからは、ベルナーオーバーラント鉄道(Berner Oberland Bahn )のオスト駅からツヴァイルチネン(Zwellutschne)を経由してグリンデルワルドまで行くほうが趣があってよいのだが、私達は鉄道沿いにバスでグリンデルワルドまで行った。インターラーケンの標高が568mなのでグリンデルワルド(1,034m)までバスで466m登ったことになる。 8:25 グリンデルワルド着。

インターラーケンからグリンデルワルドへ向う電車 この辺はスポーツ用品店が並んでいる 上層階はホテルに、地上階はスポーツ用品店
グリンデルワルドまで私達を送って、帰るバス ローカル線用の登山電車 インターラーケンへの電車
 
電光掲示の左側はグリンデルワルドヘ、右は
インターラーケンへのダイヤ(8:47発に乗車)
帰りはグリンデルワルドの一つ手前のグルント
(Grund)駅で下車して、ここからバスに乗り換える
グルント駅前で私達を待つバス
 後方はアイガー(雲で上部は見えない)


☆グリンデルワルド(Grindelwald)からクライネシャイディック(Kleine Scheidegg)

 グリンデルワルドはスイスらしい美しい山岳地で、私は子供の頃から憧れていて、一度は行ってみたいと思っていた地域である。家は集落を作らずに距離をおいて点在していて、その間を緑豊かな草原が一面に広がっている。ユングフラウよりもアイガー(グランドジョラス・マッターホルン・アイガーは、ヨーロッパ3大北壁)の基地として著名である。人口は約4千人。
 グリンデルワルドからは本格的な登山鉄道になり、通常の2本のレールだけではなくレールの間にラックといわれる歯の付いた第3のレールに、動力が歯車を介して伝わる構造に変わる。グリンデルワルドからクライネシャイディックまではヴェンゲンアルプ鉄道(WAB)で、リッゲンバッハ(Riggenbach)式、全長19.1km、レール間距離800mmである。グリンデルワルドから勾配が急になるため、クリーム色と緑のツートンカラー列車に新型の黄色と黄緑色ツートンカラーの列車が増結されて運行されている。クライネシャイディックからユングフラウヨッホまでは赤色のユングフラウ鉄道(JB)で、シュトループ(Strub) 式、全長9.3km、レール間距離1,000mmで、電源は何と三相交流(1,125V)で、電力を供給する屋根上の架線が2本ある。何れも最大勾配250/1,000と急勾配で、ゆっくりした速度で登っていく。日本人はギザギザの第3のレールを見たらアプト式鉄道と言いたくなるが、ここのはアプト式ではない。アプト式鉄道はラック式鉄道の一種で、歯車が複数(2、3枚)有る形式のものを云う。

人家が疎らに散らばるグリンデルワルドの村 グルント(Grund)駅のスイッチバックを終えて川を
渡り、いよいよ急勾配に差しかかろうとするところ
グリンデルワルド駅からクライネシャイディック駅
まで乗車した登山電車(ヴェンゲンアルプ鉄道)
クライネシャイディック駅からユングフラウ駅まで
の登山電車(ユングフラウ鉄道)、架線が2本ある
ユングフラウ鉄道(JB)シュトループ式登山鉄道
 1,000mm 電源は三相交流(パンタグラフが2列)
ユングフラウ鉄道(JB) 
シュトループ式レールのポイント部
 
ヴェンゲンアルプ鉄道の検札さん、
     立派なカール髭
グリンデルワルド駅のリッゲンバッハ式登山
鉄道 (Riggenbach)
クライネシャイディックから登っていくユングフラウ
鉄道、後方はアイガーの尾根(ハイカーの列も
見える)
ユングフラウ鉄道の車内と検札のお姉さん 人物が小さくて判り難いですがトレッキングで
歩いている人が結構います
クライネシャイディック辺りから見下ろした
 グリンデルワルドの谷
 
山肌に点在する山小屋 家が分散している、グリンデルワルドの村 グリンデルワルドの村


クライネシャイディック(Kleine Scheidegg) 2,061m

 クライネシャイディックはヴァンゲンアルプ鉄道の峠駅と、ユングフラウ鉄道の始点駅で、面白い登山列車が忙しく行き交う場所である。そして、南西方向にはアイガー(Eiger、3,970m)、メンヒ(Monch、4,099m)、ユングフラウ(Jungfraujoch、4,158m)の山々が屹立している。冬はスキーが楽しめ、リフトや登山鉄道が八方に広がっているので、広大なゲレンデになる。
 ホテル・ベルビューとホテル・デザルプは、登山鉄道が開通する(1893年)以前(1864年)からこの地に開業していて、ちゃんとグリンデルワルドまでの下水道も完備していた。2つのホテルは開業当初はライバルホテルであったが、1914年にホテルベルビューが買収して一つのホテルになった。
新田次郎の山岳小説「アイガー北壁」、「アルプスの谷アルプスの村」の舞台となった関係なのか、新田次郎の墓碑があった。
 クライネシャイディックに到着すると、山岳救助犬を真中にして記念撮影が行われた。残念ながらガスがかかっていて背景らしき山々は見えなかったのだが、出来あがった記念写真の背景にはアイガー北壁やユングフラウがきれいに合成(トップの写真)されていた。写真を受け取った午後には大分ガスも薄くなり、晴れて時々鋭鋒が見え隠れしていた。

ホテル・ベルビュー(左)とホテル・デザルプ(右) 山岳救助犬として活躍したセントバーナード犬
 この犬は写真撮影用のモデル犬みたいです
「アルプスを愛した日本の作家 新田次郎ここに
眠る」と記された墓碑。誰が作ったのか気になる。
ヴェンゲンアルプ鉄道とホテル。後方はアイガー 土産物店等があるクライネシャイディックの駅舎 左の電車はユングフラウヨッホへ登っていく。
右の電車はヴェンゲンへ下っていく。
 
周りには牛がのんびりと寝転んでいました 左の円錐形のテントがレストラン、ここで昼食を テントの中はワイルドな飾り付けでびっくり
クライネシャイディックの少し上にある人工湖
(画面中央部分)
ビール4.8スイスフラン、奥のはスープですが
ちょっと塩辛い感じがした
アルペンマカロニとガーリックトースト(これは
美味しかった)です


ユングフラウ・ヨッホ(Yungfraujoch) 3,475m

 ヨッホとは鞍部という意味で、ユングフラウ(4,158m)とメンヒ(4,099m)の鞍部にちょこっとした突き出た岩山に展望台(観測)が設けてある。ユングフラウ鉄道の終点はユングフラウヨッホ駅で、ヨーロッパで一番標高が高い(3,454m)駅である。クライネシャイディックからユングフラウ鉄道の建設が始まったのは1896年で、工事開始から2年でアイガーグレッチャー駅まで開通し、その後は全てトンネルになるので蒸気機関等の排気ガスを出す機関車は使えず電気機関車になった。今から100年前に電化されていたとは驚きである。アイガーとメンヒの山中を貫くトンネルは硬い岩盤で、14年の歳月を費やして1912年にユングフラウヨッホ駅まで完成した。夢の計画では、観光目的でユングフラウの山頂まで鉄道とロープウェイで行けるようにと考えられたが、資金不足と観光客の高山病を考慮して断念された。

 9:25 クライネシャイディックを出発する時はガスがかかっていたので期待はしてなかったけれど、アイガーヴァント(EigerWand 2,865m)駅で下車(9:50〜9:57)して外を覗くが一面真っ白(晴れていればグリンデルワルド美しい光景を望むことが出来た)。残念! トイレタイムとなってしまったが、停車時間が5分しかないのとトイレの個数も少ないので、女性はかなり厳しいので次のアイスメーア(Eismeer 3,160m)駅で再挑戦になる。アイスメーア駅も、外の景色はやはりガスで真っ白(晴れていれば雄大な氷河を望むことが出来た)。
 10:23 ユングフラウヨッホ駅を降りると、線路上と長いトンネルを歩いてエレベータ乗り場まで、ここは富士山より高く酸素が薄いので走らないようにと言われても、フラフラしながらも何故か急いで歩く。高速エレベータに乗って一気に108mをスフィンクス展望台まで上がる。エレベータが止まる瞬間、全員が歓声を上げた。雲の上に抜け出て快晴である。階段を上って屋上に出ると、メンヒもユングフラウもアレッチ氷河も全部見える。眼下の雲海が却ってアルプスらしさを強調しているようだ。何時までも雄大なアルプスの景色を眺めていたいが、後ろ髪を引かれつつ氷の宮殿へと降りていく。入り口には4ヶ国語(日本語も)で氷の宮殿と書いてあった。氷河をくり抜いて作られたので、床も壁も天井も氷になっていて、あちこちに氷の彫刻が展示してあった。彫刻は氷河をくり抜いて作られたものだけではなく、氷の彫刻を置いてあるのも有った。
 展望台には世界で一番高所の郵便ポストがあるので、私達もここで切手を買って絵はがきを投函した。時間節約のため、宛先は日本に居る間に住所氏名を印刷したシールにして用意しておいたので、短時間でポストに投函出来た。

アイガーヴァント(EigerWand 2,865m)駅 ここで
5分間停車する間にトイレに駆け込む。
女子トイレは長蛇の列に。
アイスメーア(Eismeer 3,160m)駅。ここでも5分間停車する。5分でトイレは難しいので2分余裕をみるが、それ以上は待ってくれないので注意! 急いで外を見に行くが、残念ながら白一色だった
ヨーロッパで一番標高が高い位置にある駅
ユングフラウヨッホ(Yungfraujoch)駅
1912年開通。
下車後ひたすらトンネル内を歩いて行く。
ちょっと高山病気味で急ぐとフラフラするような
感じを受けた
スフィンクス展望台への連絡トンネル
壁が削ったままなので、硬い岩盤だと分かる
 
よく分からないですが芸術 2基有る高速エレベータで108mの高を25秒で
スフィンクス展望台まで一気に上がる
氷河を20m堀った洞窟内に作った氷の宮殿
氷の宮殿には色んな形の彫刻があります みやげ物店。ここで切手を買って、絵葉書を
ポストに投函すると世界一高い所から郵便物を
出したことになる
アルプス最大の、アレッチ氷河(Aletsch
 Glacier)長さは23kmにも及ぶ
 
メンヒにかかるガス 下界はは曇り空 1996年に出来たスフィンクス展望台(3571m)で
メンヒ(Monch 4,099m)をバックに
ユングフラウ(Jungfrau 4,158m)の山頂は左の
ピーク


☆グリンデルワルドからジュネーブ バス移動距離:約237km、所要時間:3時間25分(休憩21分を含む)

 14:15 グリンデルワルドからは、再びインターラーケンの街外れまで戻り、トゥーン湖の南側湖畔を走り、レマン湖を目指してバスは走る。レマン湖の大噴水(140mの高さ)は良く分からなかった。17:40 ジュネーブまで来ると人種が様々で、いろいろな国の人が集まってきているのが分かる。治安が良くないので、持ち物(貴重品)の管理はしっかりと各自で行うようにとの注意があった。

この辺の家は屋根の形(妻の部分が斜めに切り
落としたように)が特徴的である
トイレ休憩に立ち寄ったドライブインAutogrill 店内のメインストリート、広い通路の両側に
いろんな店舗が並ぶ
チーズ売り場 一切れ2〜6スイスフラン 果物売り場 バナナ一房5.5スイスフラン
リンゴ3.6スイスフラン
公衆電話 警察:117、消防:118、救急車:144
 
麦畑と遠くにぶどう畑が センターウィリアムラパール
(Centre William Rappard)
ジュネーブ駅近くの道路上に展開したカフェに
多くの人が屯する。ジュリック通りを過ぎた辺りの
ローザンヌ(Lausanne)通り
バスの中から見るジュネーブの街
ローザンヌ(Lausanne)通りとぺ(Paix)通りの交差点
三ッ星のホテルベルニナ(HOTEL BERNINA) 街中を走る路面電車(芋虫みたいに曲がる)


☆ジュネーブからパリ TGV移動距離:約556km、所要時間:3時間30分

 TGV(高速鉄道)での移動は19時からの乗車となるので、出国(日本)前の予想では、車窓からは夜景しか見られないので残念だと思っていたが、ジュネーブ出発の19:17はまだまだ昼の感じで明るく、その後も長い間車窓からの景色が楽しめた。夕食は車内で幕の内弁当を食べたが、これが結構美味しかった。流石にパリに近づく頃には日も落ちて真っ暗になった。日本では都心が近づけば灯りが見え隠れするが、ここバリでは車窓には何も見えない暗闇状態(人家が少ない)が続いた。 22:47パリ着。

ジュネーブ駅のチケット売り場 ジュネーブ駅のホーム(時計は夜の7時) 19:17発 リヨン・パリ行のTGVをホームで待つ
ジュネーブの幕の内弁当をTGVの車内で食べた
ちゃんと日本の味
パリの駅ホームに降り立つ
 (各方面のTGVが並んでいた)
22:50のパリ駅構内、まだまだ人通りは多い


☆パリ市街(Paris)

パリ市内での人口は220万人(都市圏内となると1200万人)くらいの大きな都市である。パリの地名の由来は、「Parisii、田舎者・乱暴者」であるが現在のフランスのイメージと随分異なることになる。ローマ帝国のカエサルのガリア戦記などでも蛮族扱いされていた頃からの地名パリなので、仕方ない命名と言えるかと。

グレバン蝋人形館(Musee Grevin)
世界の有名人の蝋人形が並んでいる
街中のあちこちに在る広告塔(Gabriel Morris) 内部には有料トイレとか電話とかが有るのだそうだ
格安のハンバーガー店 三ツ星ホテル
メルキュールロンスレー(Mercure Roncray)
街角の花屋さん
 
ガルニエ宮(Palais Garnier)国立音楽アカデミー
 通称オペラ座
車の道路脇に馬専用道路があり、犬や人も
散歩している
シャンゼリゼ通りと凱旋門
ルーヴル美術館近くのピラミッド通り入り口に
ある黄金のジャンヌダルク像
2階建てバスとカプシーヌ通りの、喫煙具商から
始まったLANCEL
街角のカフェでは屋外の席に人が多く屯している
傍目や車の排気ガスは気にならないのだろうか


ヴェルサイユ宮殿 (Palace and Park of Versailles)

 ヴェルサイユ宮殿はパリ市街中心部より南西約20kmのところに在る。フランス王ルイ14世(1638-1715)によって建てられた宮殿である。ルイ13世の館を1661年から4年かけてルイ14世が増築し、その後庭園などの建設や更なる増築を経て1682年には宮殿として使われはじめた。1699年には礼拝堂も建設された。ヴェルサイユ宮殿は鏡の回廊等で知られる建物以外に、広大な庭園がある。庭園には噴水が1,400も噴き上げる世界最大の規模で、ルイ14世はこの庭園を気に入り、来賓がある度に自ら庭園内を案内して回った。ヴェルサイユ全体の面積は1,070ha(皇居は115ha、大阪城公園は106ha)と如何に広いか。
 ベルサイユと言えば王妃マリーアントワネット(1755-1793)を連想する人も多いのでは。オーストリア(ハプスブルク家)のマリア・テレジアとフランツ1世の11女として生まれたマリア・アントーニアは14歳でフランスの王子ルイのもとに嫁ぎ、38歳までの24年間を過ごした宮殿。池田理代子の漫画を原作にした宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」の舞台となっているのはこのヴェルサイユ宮殿(ルイ16世 1754-1793)である。ベルばらも初演からすると30数年にもなり、世代を越えた共通認識で、誰しも一度はこの地を訪れてみたい。

駐車場には数えられないくらいの多くのバスが
並んでいた。奥に見えるのが宮殿の建物。
ヴェルサイユ宮殿前の広場 この門から宮殿の敷地に入って行く
宮殿入り口から反対側(パリ通り)を振り返る 切符を買い求める人で長蛇の列(見えてる行列
の3倍くらいの長さ)が出来ていた
(建物は閣議の翼棟)
ガブリエル棟(左)と礼拝堂(右)
団体の入り口(私達はここから入った)
ステレオ写真
 
入り口入ったところ 二層様式の王室礼拝堂 2階部分から ヘラクレスの間 (Salon d'Heracule)
ヘラクレスの間の天井画 ヘラクレスの間 豊穣の間 (Salon de I'Abondance)
 
豊穣の間の天井画 ヴィーナスの間 (Salon de Venus) ルイ14世像 ディアーヌの間 (Salon de Diane)
マルスの間の天井画 狼が引く凱旋車に乗る神マルス マルスの間 マルスの間 (Salon de Mars) マリー・レザンスカ
 
ルクリスの間 (Salon de Mercure)の天井画
雄鶏が引く凱旋車に乗るメルクリス ヘルメットを
貴人の間 アポロンの間 (Salon d'Apollon)の天井画
戦争の間 (Salon de la Guerre) 鏡の回廊 (Galerie des Glaces)  長さ73m
ステレオ写真
 
鏡の回廊の彫像
王の寝室 (Chambre de Roi) 平和の間 (Salon de La Paix)
 
王妃の寝室 (Chambre de Reine) の天蓋 王妃の寝室のベッド マリーアントワネットと子供達
王妃衛兵の間 Salle des Gardes de la Raine) 載冠式の間 (Salle de Sacre) 幾何学模様の広大な庭園
ステレオ写真


12:00 昼食はポークとフランスならではのエスカルゴが出てきた。ここで頂いたエスカルゴは緑色のソースとの相性が絶妙でとても美味しかった。

昼食でレストランに入ろうとしているところ この店に訪れた映画スターの写真が飾られているが、かなり年代が古い方のようで見覚えのある
顔は見つけられなかった
柔らかいポークとポテト エスカルゴ(緑色のソースが合って美味しい)) やはりフランスパンが


ルーヴル(Louvre)美術館

 ルーヴル美術館は最初からこの地に美術館として建てられたものではなく、ルーヴルLouvreは要塞の語源から由来していて、セーヌ川の中洲(シテ島)があるこの辺りは敵にとっては渡河し易い場所であったため、重要な防衛拠点として12世紀末頃から要塞の建設(ルーヴル城)が始まった。しかし、この要塞は戦火に巻き込まれることは無く平穏が続いた。14世紀になるとシャルル5世(在位1364 - 1380)によって、要塞重視から華麗な城館へと改装されるようになった。その後、フランソワ1世(在位1515−1547)によって旧城館を壊し華麗な宮殿が建設され、アンリ2世(在位1547−1559)やその王妃(カトリーヌ・ド・メディシス)によって受け継がれた。ブルボン王朝に代わってからは、宮殿を4倍に拡大する大計画が、アンリ4世(在位1589-1610)とルイ13世(在位1610 - 1643年)で受け継がれて造営され続けた。
 ルイ14世もルーブル宮殿の造営を続けたが、それと並行してベルサイユ宮殿も拡張と華麗さの充実を図っていて、結果としてルイ14世はベルサイユ宮殿を選択し、その後はルーヴル宮殿は王宮ではなくなった。ルーヴル宮殿は、居残った芸術家や職人の住居となり、その後は荒れる一方となった。
フランス革命中の1793年8月10日に、ルーヴル宮殿をルーヴル美術館にすると決まった。
 展示会場が広いし展示物も多過ぎて、じっくり見ていたいがいくら時間があっても足りないので、これだけは見ておきたいというものものだけを見て回った。

地下に張り出してる逆ピラミッド ナポレオンホール
アルテミスと鹿の像 
ここを左側に入ったところにモナリザが
眠るヘルマフロディトス(男女両性)
神ヘルメスと神アフロディーテの息子
ミロのヴィーナス(これだけをゆったりと展示)
 
ミロのビーナス(アフロディーテ)
背丈は203cmもある
エーゲ海ミロス島の競技場跡で
発見された
大理石で紀元前130年頃の作
サモトラケのニケ(ロードス軍の海戦
勝利を記念して、船首に立つ女神)
紀元前130年頃の作
エーゲ海サモトラケ島で発見された
ダリュの階段の上に安置され、
高さは328cmと大きい
サモトラケのニケ周辺も人が多い
ステレオ写真
パルテノンのイオニア式フリーズ(乙女たちの石盤) 館内の壁画や天井画、そしてその彫刻も凄いが
展示物に気を取られしまって見過ごしてしまう
 
豪華な食器が所狭しと並んでいる
ナポレオン1世の戴冠式(ノートルダム寺院で
皇帝がジョセフィーヌ皇后に冠を被せるところ)
1807年 ジャック・ルイ・ダヴィッド作 横9.79m
グランド・オダリスク(解剖学的には胴が長くて
違和感があるという) オダリスクとはトルコの
ハレムを指す 1814年 横1.62m
ジャン・オーギュスト・ドミニック・アングル作
民衆を導く自由の女神  1830年7月28日の
7月革命で、バリケードを踏越え三色旗でいろ
んな階級の人々を導く女神  青白赤の色使い
1831年 ウジェーヌ・ドラクロワ作 横3.25m
 
モナ・リザの微笑 (フィレンツェの婦人、人垣と
ガラスに反射して上手く撮れなかった)
1506年 レオナルド ダヴィンチ作 縦77cm 
カナの婚宴 (とても大きな絵画666x990cm、
カナ村でのキリストの奇跡を描いた。中央に
キリスト) 1563年頃 パオロ・カリアーリ作
メデューズ号の筏 (1816年に起こったモーリタ
ニア沖でのフランス軍の海難事故で助かった
15人を描いた)
1819年 デオドール・ジュリコー作 横7.16m
絵画と豪華な天井、流石に元皇宮 奴隷 囚われの身/瀕死の奴隷 (皇帝ユリウス2世の霊廟になる予定であったが未完成に)
1515年 ミケランジェロ・ブオナローティ 高さ2.09m
ステレオ写真


セーヌ(Seine)河クルーズ 所要時間:1時間6分

 セーヌ(Seine)河はフランス国内を流域にして780kmもの長さの河で、ロワール河に次いで長い。パリ中心街を大きく蛇行しながら貫くように北へ流れる。セーヌ河在ってのパリでもある。セーヌ河のクルーズ船の船会社は4社有って、私達が乗船したのはバトー・パリジャン(Bateaux Parisien)で、料金は1時間のクルーズで11ユーロであった。発着はエッフェル塔の前。17:30発に乗るために、早くも17:10に順番待ちで並ぶが、長蛇の列で良い場所に座れるのかどうか不安になる。しかし、乗船したクルーズ船は乗船定員がかなり多く、全員が乗り終えても中程の席はガラガラだった。クルーズ船はトリマラン(三胴艇)で、13ヶ国語のガイドフォン(ハンドセット)が全乗客分完備している。クルーズ船は右側通行で進み、ノートルダム寺院が良く見えるということで私達は左舷に陣取った。

 17:32 船が出て間もなくするとアルマ(Alma)橋を潜る。アルマ橋の北詰めには、金色の自由の女神の炎の部分だけがあって、これをダイアナ妃の慰霊碑(1997年8月31日、ホテルリッツからドディ氏と乗車したベンツがパパラッチを巻こうとスピードを出し、アルマ広場下のトンネルの支柱に激突して、36歳の若さで逝去)と勘違いして花束を供える人が多いそうです。暫くすると、豪華な装飾のアレクサンドルV世橋が見えてくる。1900年のパリ万博のときに、ロシアとフランスの友好の証としてニコライU世がパリ市に寄贈した橋である。鋼鉄製で長さ107m、幅40mで橋脚は無い。暫くするとルーヴル美術館のドノン翼とロワイヤル橋(Le Pont Royal)を潜る。何度か壊れた木造の橋を、宮殿前ということでルイ14世が威信を掛けて1689年に石造りで建設した。暫くは広大なルーヴル美術館の建物が続き、カルーゼル橋、ポンテザール橋と潜っていく。ポンテザール橋はナポレオンが1804年に鋼鉄製で作らせた歩行者専用の橋で、現在の橋は1984年に架け替えられた。芸術の橋とも言われ、橋を利用する人は多い。暫く行くと中洲(シテ島)が在ってその右側を船が進み、左側にノートルダム(Notre-Dame)寺院が倒れるような威圧感で迫って来る。ノートルダム寺院はローマカトリックの大聖堂で、1163年パリ司教モーリス・ド・シュリーによって着工し、現在の容に完成したのは1345年。ゴシック様式。ノートルダムはフランス語で聖母マリアという意味。パリからの距離はこのノートルダム寺院を起点にしている。クルーズ船はサンールイ(Saint-Louis)島を過ぎて、船首をエッフェル塔に向けて復路に付く。
 サンールイ島を過ぎて、シテ島に来ると、左側に円筒が並んだような建物が見えてくるのはコンシェルジュリー(Conciergerie)で、フィリップ4世の宮殿が牢獄として使われ始め、フランス革命の時は王族・貴族もここに収容され、有名な王妃マリーアントワネットも、幽閉されていたタンブル塔からここに2ケ月あまり投獄され、同じコンシェルジェリーで一方的な裁判にて有罪とされ、24時間以内にコンコルド広場で処刑(ギロチン)された。
 ロワイヤル橋まで戻って来ると左手にオルセー美術館が見えてくる。1900年のパリ万博に合わせて作られた鉄道(オルレアン鉄道)のオルセー駅が前身である。列車が入るくらいなので建物は長くて大きい。1986年に19世紀の美術品を展示する目的でオルセー美術館に改装された。18:38 クルーズ船は元のエッフェル塔の船着場に戻って18:38 下船。

 クルーズ船乗船時に写真をパチパチ撮っている人がいたので、その時は何だろうと思っただけでやり過ごしたが、下船後にその写真をキャビネサイズくらいに引き伸ばして記念写真(10ユーロ)として売っていました。既に引き伸ばした写真になっているので、誰も買わなかったらどうするのだろうと心配になる。












ステレオ写真
パリ市内の街角で結婚式の花嫁さんを、1日で5組
も見ました。パリでは街角で結婚式をするのが
日常的なのか、偶々この日が特別な日なのか。
乗船したクルーズ船 
バトー・パリジャン(Bateaux Parisien)11ユーロ
船内の様子(真中の子供が持っている電話機の
ようなものが13ヵ国語対応のガイドフォン)
アレクサンドルV世橋。ロシアが1900年パリ万博
に合わせて友好記念に建設した
アレクサンドルV世橋の中央にある豪華な装飾
 
ルーヴル美術館のドノン翼の西突端とロワイヤル
(Royal)橋
ルーブル美術館とカルーゼル(Carrousel)橋 質素な歩行者専用のポンテザール橋(芸術橋)
シテ島の突端で涼を求める人 河から見上げるノートルダム寺院 サンールイ島上流からノートルダム寺院を望む
橋に信号機が見えるのでセーヌ河では右側通行
をするようだ
 
船尾の特等席?、後方はノートルダム寺院 シテ島の北東河畔(屋根越しにノートルダム寺院
が見える)
サンールイ島北側、マリー橋をこれから潜る
河幅が狭いので護岸に近いところを通った
コンシェルジェリー(牢獄として使われていた) フランス学士院とポンテザール橋 オルセー美術館。建物が長いのはパリ万博の
折に、鉄道の駅舎兼ホテルだったため


18:55 夕食は中国料理(玉泉樓)で、最初に出てきたスープはとても美味しかったし、写真では分かりにくいがスープの器が大きくて量がとても多かった。それから後も白身魚、鶏肉、イカ、豚肉、白菜と、単品だけでもボリュウムがあり、全部はとても食べきれなかった。

このスープはとても美味しかった 器は深い
洗面器くらいの大きさで、スープの量はかなり多い
白身魚の甘酢あんかけ 鶏肉の香味焼き
イカの炒めもの? 豚肉玉ねぎのオイスター炒め? 白菜の生姜蒸し


☆パリ(Paris)からモンサンミッシェル(Mont Saint-Mchel)へ 移動距離:約370km、所要時間:4時間31分(休憩24分を含む)

 ホテルの朝食はやはりバイキング形式。給仕をしてくださったのはウーピー・ゴールドバーグのような感じの女性で、静かに黙々と仕事をされていて、それでいて全てを仕切られていました。
 モンサンミッシェルへの旅程は日帰りなので、パリ市内を7:35に出発。気温20℃。途中ドライブインでトイレ休憩をとる(9:31〜10:05)が、一路モンサンミッシェルを目指した。ドライブインでは突然の強い雨に襲われた。ドイツではドライバーは一人で連日運転されていたが、フランスでは必ず交代要員が要るとのことで、今日は女性ドライバーも加わって2名になっていた。
12:06にモンサンミッシェルが程よい距離見えるレストラン ルレ・サン・ミッシェル(Relais Saint-Michel)に着いた。ここではモンサンミッシェル名物のふわふわオムレツ(島内に在る本家ラ・メール・プーラールのオムレツは厚みも大きさも3倍くらいあった)をいただいた。りんごケーキは美味しかったが、りんご酒(シードル)は好みがあるようで、ちょっと口に合わないといって遠慮する人もあった。

ホテルホリデイ・イン・ビレットの朝食
パリの朝食は簡素なのが普通のようである
ホテルから北側の眺め。ビレットグランドホール
(Grnde halle de La Villette)が目の前に。(6:56)
ホテルの東側の眺め。パリ環状道路が見える
(交通量は多くて渋滞することが多い)
フランスでの移動はこのバス。ドライバーは男女
2名が交代で(技量は男性に軍配が)
牧歌的な風景が続く
フランスでも農業(食糧自給)が基本になっている
トイレ休憩で寄ったドライブイン
 
自転車を背にした車もよく見かけた コーヒーやフルーツジュースやチョコレートの売り場 クロワッサンのバリエーション 1.5ユーロ
サンドイッチ 4.5ユーロ ミネラルウォーター 1.3ユーロ 栄養飲料のようなもの 2.9ユーロ
 
左は家の新築中 (必ずこのクレーンが見える) 刈り込んだ牧草を丸めたものがあちこちに点在
しているのは面白い風景だ
モンサンミッシェル手前のレストラン 
ルレ・サン・ミッシェル(Relais Saint-Michel)
りんご酒のシードルですが、好みが分かれる モンサンミッシェル名物ふわふわオムレツ
本家ラ・メール・プーラールの1/3くらい
エイのムニエル 丸いのはライス
 
この地方では有名なりんごケーキ レストランの窓からモンサンミッシェルが見える ツアーも日を重ねるごとに新密度が増し、食事も
和気藹々となった


モンサンミッシェル(Mont Saint-Michel)

 モンサンミッシェルの孤島は、もともとはケルト人が信仰する聖地であった。708年に、北東20km程のアヴランシュ(Avranches)大司教オベールが、夢の中で大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」と3度もお告げを受けた。その大司教オベールがモンサンミッシェルの岩山に小さな礼拝堂を建てたのが始まりである。それから250年余り後(966年)に、ノルマンディー公リチャード1世がベネディクト会の修道院をモンサンミッシェルに大造営して、その後増改築を重ねて13世紀には現在の規模になった。
 14世紀には、英仏の王位継承をめぐっての百年戦争で島全体が要塞になってしまったが、戦災を受けずに終戦に。勝利に導いた大天使ミカエルの崇拝が高まり、聖地巡礼でモンサンミッシェルを訪れる人が多くなった。
18世紀のフランス革命期から1863年までは、修道院が監獄として使用され、海のバスチーユと言われ、1万2千人がこの島に送り込まれた。監獄としての利用が終わると、再び憧れと崇拝の聖地として見直され、1874年から修道院の修復が始まり、ミサも行われるようになった。現在でも3人の修道士と9人の修道女が修道院を護っている。
 昔のモンサンミッシェルは沿岸にぽつんと浮かぶ孤島で、潮の干満の差が激しくて海面は15mも上下し、引き潮時には本土と陸続きの道のようなものが現れ、巡礼者はそこを往来していたが、潮の流れが激しく犠牲者が出ることも少なくなかったところである。しかし、1877年に写真の通りの潮に洗われない立派な道路が出来て、この道路が潮の流れを断ち切ってしまったため、モンサンミッシェル周辺には砂が堆積して景観を損ねてしまった。近い将来にこの立派な道路を撤去(2009)した上で、潮の流れを妨げない脚付きの連絡橋を建設(2014.7.22)して、バスや乗用車は遥か手前に駐車させて、ここからは歩いたり乗り換えて島に渡るようになる。それで潮の流れが復活すればモンサンミッシェルも昔の風情に近くなる。

 13:20 バスを降りてから、私達は城門を入って王の門を潜った辺りを過ぎると、観光客で混雑する(日帰りでの観光が多いので昼前後の時間帯が一番混雑する)メインストリートから左の脇道に逸れて、石造りの階段や建物の間の近道?を通り抜けて入口に辿り着いた。一般の入場者が長い列を作っている横を抜けて比較的早く入ることが出来た。中に入るとゆっくりと右に曲がる階段が長く続き、息が切れるころにいきなり視界が開けて西のテラスに出る。テラスの床の敷石には、ここの建設に関わった職人の名前が刻まれた石が幾つも点在している。西のテラスからは眼下に海が一面に広がり、ホッとする一時であった。そこから入ると天井の高い教会で、中には祭壇の前に長椅子置かれていたのでホッと一休み。壁の小さな聖ミカエルの像を見て、四角い中庭の周りを2列に柱が並んでいる列柱廊(日本で言うところの3階になるため、重量を軽くするため、柱は大理石を使っているが上部は石灰岩で、天井部分は木造に)を巡り、体育館みたいに広い食堂に至った。一見窓が無いように見えたが両サイドにスリット状の縦長の窓がずらりと並んでいて、天井は重量を軽くするため木造になっている。何かのイベントが予定されてるのか1mくらいの大きな砂時計が部屋の真ん中に置いてあった。それにしても食堂が何でこんな大きさが必要なのか理解できなかった。迎賓の間は、貴族等身分の高い人を持て成す部屋。大きな暖炉が二つ有って、暖炉の中に入って上を見上げると遥か高いところに空(小さな丸い煙突穴)が見える。
太柱の礼拝堂は上階の教会の重量を支えるために柱が異様に太くて本数も多く、空間に対して柱の占める割合がかなり多い。柱の間に結構広い面積に水が溜まっていた(20cmくらいの深さ)のですが、何のためか聞き逃してしまった。過去の写真を参照すると水溜りは無く、そこを人は歩いていた。大きな(直径5mくらい)木製のドラム(ねずみの回し車)が見えてきた。この回し車に囚人が何人か入って、ドラムを回して太いロープを巻き上げるような構造になっている。ロープは建物の外まで張り出している滑車を経て、外壁に沿って上下するリフトで荷物(食料など)の上げ降ろしをしてたのだそうだ。重い荷物を降ろす時は、回し車が慣性力で回っているのを止めるのは難しいと思えるが、ブレーキの役目をする物は有ったのだろうか。
ステファヌスのチャペル(死者のためのチャペル)は、19世紀にはハンセン氏病患者が収容(当時は不治の病で感染すると思われたので隔離)されていた。十字架の下の、AΩ(AZ)の文字は永遠を表している。
モンサンミッシェルの建物は、山を削って平坦な土地にしてから建てられたのではなく、山なりの岩盤をそのまま利用しているため建物中心部には部屋は無くて岩山がある。従って低層階ではU字型になっていて、岩山ギリギリに部屋が作られているので、一部分ではその岩盤が剥き出しになっている部分を見ることが出来る。

 上が北で海側    モンサンミッシェル入場時のリーフレットより
 下層階

1:哨兵の間  2:大階段  15:司祭館

 中間層階
7:迎賓の間  8:太柱の間  
9:マルティヌス礼拝堂  10:修道院の納骨堂  11:ステファヌスのチャペル  12:階段  
13:修道僧の遊歩道  14:騎士の間  
 上層階

3:西のテラス  4:修道院付属の教会  
5:列柱廊  6:食堂  


唯一の連絡道路よりモンサンミッシェルを見る。
この連絡道路により潮の流れが変わり、島の周り
に砂が堆積して景観を台無しにし始めている
入り口付近より見上げるモンサンミッシェルの尖塔 左側は有料トイレ(0.4ユーロ)。ここから右方向に
入って行くと跳ね橋に辿る
大通り門 (15世紀に作られた) 巡礼者向けのふわふわオムレツのラ・メール・
プーラール、右奥が跳ね橋の在る王の門
王の門を潜ると両側に建物が迫りくる狭い道
 
人通りの多いメインストリートを避けて、入り口まで
の近道である石段を登って行く
手前の黒いのがオムレツのプーラールおばさん
の墓石で、その奥がご主人の墓石と二人並んで
葬られている
中腹にある綺麗に整備された村の墓地とその奥
が500年以上前から在る村のサン・ピエール教会
歴史的博物館 (牢屋等が在る) 6ユーロ 込み合う入り口、左側が団体で右側が一般 全てが石造りになっているのが良くわかる
 
西のテラスから列柱廊と北方向の海。左の岩島は
トンブレーヌ岩で過去には小さな教会が有った
西のテラス(とても広い、3階)
ステレオ写真
大階段を上がったところが西のテラスで18世紀
までは建物だったが火事で崩れ落ちて今の状態に
修道院付属の教会(百年戦争の後で再建された
ゴシック様式)
昼の12:00から1時間ほどミサが行われる
教会の椅子に座って一息
西のテラスの床石には、教会建設に関わった職人
の名前が刻まれている
 















聖ミカエルの像 中央に見えるのが祭壇
列柱廊の中庭 四方を回廊に囲まれている 
ここは3階(3層目)にあたる
修道僧たちの食道 かなり大きな部屋 
天井は軽量化のため木造になっている
列柱廊、僧の瞑想と憩いの場 
柱は大理石だが上部は石灰岩で屋根は木造
 
大天使ミカエル(上)にモンサンミッシェル創建を
と指を差されるオベール司祭のレリーフ
中世は修道士の食堂
催しがあるのか、大きな砂時計が置いてあった
迎賓の間、修道院長が身分の高い人を持て成す
部屋、奥の人がいるところには大きな暖炉が2つ








太柱の礼拝堂(この上が教会)
真中の暗い部分には水が貯められていた
マルティヌス礼拝堂 オレンジ色の部分は壁の
厚み(2m以上?)が良く分かる
 
この滑車で屋外からの荷物(食料品等)の上げ
降ろしを行った  右側が屋外
大きなドラムの中に囚人が入って、鼠の回し車の
ようにしてロープを巻き上げた
(6人で2tの荷揚げが)
ステファヌスのチャペル(死者のためのチャペル)
19世紀にはハンセン氏病患者が収容された
十字架下の、AΩ(AZ)の文字は永遠を表している
ステファヌスのチャペルの背後のレリーフ 修道僧の遊歩道、僧侶が疲れを癒すために
散歩していた 11-13世紀に増築された部分
モンサンミッシェルで唯一岩盤が露出している場所
 
ゴシック様式の騎士の間
ステレオ写真
モンサンミッシェルの建物先端(地上150m)の
ミカエル像(石膏の複製)
西のテラス(左の壁の上)の下の広場、右は海
正面に列柱廊や騎士の間、右上は西のテラス 城の周りをぐるりと周って出口を目指す 最後はこんな狭い所を抜けて行く
 
土産物屋さんやホテル等が延々と続く大通り グランド・リュー(Grande Rue)、凄い人込みの中を王の門へと下っていく


☆モンサンミッシェルからパリ 移動距離:約370km、所要時間:4時間32分(休憩22分を含む)

 15:25 パリへの復路に着く。帰りは流石にモッサンミッシェルでの疲れもあり、往路で見慣れた景色もあって車中では眠っている人が多かった。パリ郊外までは順調にバスは走っていたが、ベルサイユ宮殿の辺りからパリ市内の渋滞に巻き込まれてノロノロ運転になったが、20:07にはホテルに着くことが出来た。大型バスがホテルの敷地へ入るには難しい鋭角ターンをしなければならないが、女性ドライバーはそれを見送り広いところでUターンしようと通り過ぎたけれど、回転場所に相応しい交差点がなかなか見つからず、市内を随分遠くまで走ってからUターンしたので、私達は余分にミニ観光してちょっと得した気分に。

モンサンミッシェル手前の自家用車とキャンピング
カーの駐車場(これはほんの一部)。
牛が何故か、全頭一斉に左を向いて草を食べて
いる長閑な風景
料金ゲートがズラリと並ぶ
フランスの公衆トイ
レで時々お目にか
かれる、日本の和
式トイレに似たトル
コ式トイレ、便器が
浅いので用足しや
水を流す時は注意
を要する
 
バケット(ツナ、ビーフ、ハム)4.1ユーロ パック詰め果物3ユーロ前後、真中のは6.2ユーロ
 
トイレ休憩で寄ったドライブイン 緑溢れる平原が続く ポルシェヴィル(Porcheville)火力発電所
ホテル ホリデイイン・ラ・ビレットの夕食
(シーザーサラダ)
メインディッシュのビーフストロガノフ アイスとフルーツのデザート


☆ドゴール空港からフランクフルト経由関空まで 所用時間:50分+10時間51分

 バス出発までに時間があったので、食後にホテルの周辺を散策した。
 8:27 昨日までと違って少し狭いバスでドゴール空港に向かう。所要時間25分で空港に到着。パリ・ドゴール空港ターミナルはエスカレータや動く歩道を何本も乗り継いで移動するようになっている。パリーフランクフルト間もルフトハンザ航空での移動で、機種はB737−300であった。比較的低空を飛ぶので地上の景色や空に浮かぶ雲(ビデオ映像)が手に取るように見え、約50分の飛行時間もあっという間に過ぎて、13:00 フランクフルト空港に到着した。機内では軽食が出された。
 フランクフルト空港からは往きと同じルフトハンザ航空A340-600を利用。15:00にフランクフルトを離陸。16:48ポークカツの夕食が出て、21:30にスナック菓子とドリンクサービスが、そして日本時間6:50に朝食も出た。往きの所用時間11時間30分より39分早く、10時間51分で関空に到着(8:51)。

最後の荷物出し。次に我が荷物と会うのは関空 3連泊したホテルホリデイイン・ラ・ビレット ホテル近く、朝の地下鉄入り口付近 (7:57)
ドゴール空港への18番入り口 ドゴール空港第1ターミナル。円筒形になっている パイプ状の移動回廊(エスカレータ)や動く歩道で
移動する
 
出発ロビーで待つ人々 明るい感じの女子トイレ 搭乗機荷物室内への荷物の搬入
これから搭乗(ドゴール→フランクフルト))する
B737-300が駐機場に
機体を傾けて旋回したので地上が良く見える
ゴルフ場のコース
羊のような雲が眼下に見え気持ちが良い
ビデオ映像
 
B737-300の機内 3-3の座席配列  機内で出された軽食 乗換えのためタラップを降りてバスに向かう
フランクフルト空港内での移動用連結バス フランクフルト⇔関空
A340-600の機内 2-4-2の座席配列
オレンジ色のヘッドレストは頭を挟むように折り
曲げることが出来、眠るときには楽ちんだ
 
機内食の夕食 各自のモニターに表示させた飛行経路 機内食の朝食


☆編集後記

 私達が参加したツアーの1週間後に出発する、ほぼ同じようなコースにマッターホルンが追加されて1日長い旅程なのに2万円安いツアーがあり、どっちにしようか迷った。出発の1カ月前にエールフランス機墜落事故(エアバスA330-203がブラジル北東沖に墜落して228名全員死亡)があって、私達は価格より安心を優先した。従って同行されていた皆様方も大らかな心持ちで寛容な人達が集まっていたように感じました。
 一所懸命に尽くしてくださったキュートな添乗員のRさん、ツアーのムードメーカーで何時も笑顔で明るい彦根のNさん夫妻、コーラスをされてて笑顔の素敵な河内のKさん3人グループ、ノート一杯に手記?を書いておられた沖縄の夫妻、旅行慣れされてた岡山の夫妻、野菜の作り方を教えてもらった神戸の夫妻、フイルム一眼レフカメラを駆使されてた徳島の仲良し3人グループ、何時もビデオを回されていた70代の元気な豊中の夫妻、お洒落な横浜の姉夫妻とスタイリッシュな妹さん、大病を克服されて元気に参加されていた夫妻。
このような皆様と一緒させて頂き、楽しい旅の思い出を残すことが出来ました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

私達の写真が2010年のパンフレット(ドイツ・スイス・フランス)と、阪急交通社の雑誌(H22年1月号からのトラピックス倶楽部関西版)に掲載されました。