法律は善良な市民のために有らず

H22.7.22更新

 人は時として窮地に立たされることが突然起こり得る。
そんな時に、頼りになるは法律や司法だと信じている方々は多いであろう。しかし、現実に問題と直面してみると、正直で善良な人には法律や規則がむしろ障害となったり、思いもよらないことで陥れられたりすることが多々生じる。

 個人だけでなく、NPO法人や自治体でも、誰が考えても良いことで直ぐにでも実行に移したいと思っても、そこには必ず法律や規則の壁にぶち当たり、素晴らしい考えでも断念せざるを得ない。法律や条例をを変えようとしても、私利私欲の政治家や暴利を企む実業家に反対され、そして揉み消されてしまう。

 乱暴な解釈の仕方になるかもしれないが、法律や規則は悪事を働いた人の人権を護るためや、悪事を計画するうえでの行動基準のようなものになり得ると言える。

法律は加害者の為にあり、被害者のことはあまり考慮されていない。しかし、誰しも加害者にも被害者にもなり得る。

 心優しい人が真面目に生活してゆく上では法律とはあまり縁がないが、悪事を企む人は法律の抜け穴を探ろうとして法律に詳しくなる。この両者が同じ社会で暮らすのだから、それは赤ん坊と鬼が同居しているようなものである。

 

★地下鉄の電車内で、某大学の法学部在籍の学生に、実直な男性が痴漢行為(冤罪)で陥れられる事件があった。
「迷惑行為防止条例」では、被害者女性の「この人が痴漢をした」の一言で、証拠がなくてもほぼ刑が確定するため、それを逆手にとって善良な市民を陥れようとする犯罪が後を絶たない。
痴漢行為の取り調べでは、証拠は無い(目撃証人も見誤ることもある)ので本人の自白しかなく、痴漢をやってなくても自白するほうが、刑は軽いし直ぐに釈放されるので、無実でもやりましたと屈服する人もある。
真面目で正直な人は、自分の潔白を証明したいため自分はやってないと主張するが、その場合は長い期間拘留されて、実名も公表される。無罪を証明することが出来ないため、結果として反省の余地がないとのことで刑が重くなる。

 痴漢は許されざる行為で、もっと重い刑に処すべきであり、それには公正な裁きがなされるべきである。しかし、電車やバスに乗った人なら分ると思うが、車内での移動時や車両が揺れた場合に他人に一切触れないで乗車するのは不可能である。意図的な痴漢行為は許されざる行為だが、不可抗力で触れたことで、一度しかない大事な人生が台無しになるのは理不尽な気がする。
善良な市民が誤認で陥れられた場合、加害者に仕立て上げられた本人の社会的損失の大きさは測り知れないものがある。

★京都市バスに、駐車違反車両をカメラで撮影して、その情報を警察の駐車違反の取り締まりに役立てるという計画(H22.6)に、個人情報保護条例が待ったをかけた。市バスの安全運転や一般車両への迷惑を考えると、違法駐車は取り締まるべきだと思うが、ここでも違法駐車をする言わば軽犯罪者を擁護するのに法律がつかわれている。多大なる迷惑を受ける善良な市民のためではなく、法を犯して得をしようとする者に法律が味方する。